コトバ

フラヌールっていうのはフランス語で遊歩者っていう意味だって、知った日。知らないコトバがでてくる本は嬉しい。全て知ってしまったら終わりだもんね。 コマーシャルみたいなものに遥か昔に飽きたのはそのせいかもしれない。なんだそれが少なすぎるんだ。そんな言葉知ってるよ そんなやり方知ってるよ そんな風にやったら上手くいくことくらい知ってる 僕はできないけれど笑

アングラだから良いともメジャーだから良いとも違う所に自分たちの心はある。 ある程度は難しいことをやりたい。波に乗るのでなく波自体を小さくても良いから作り続ける。その先にはきっと波は波じゃなくてもっと大きい何かになる 何かは何かわからない。 それが良いんだ。何かが何かなんてわかりたくない。 存在するかしないかも、 わからないことに意味がある。わからない景色が見たいというジャンキー的な発想がある。 でもそんなものには頼らないのだ。

今や地球の歩き方やなんかで、この景色はこの場所っていうのが決まってしまっているのだ。ウユニ湖なんて、僕は見たことないけれど、見た気になっている。ウユニ湖って場所があることを知らないで、ウユニ湖を見た日本人がいるのかな。 そんな人がいたら嫉妬する。 知らなくて見たことと、知っていて見たことには埋めようの無い大きな差がある。 結婚もしないで結婚のことが想像できて、就職もしないで就職した先が想像できる。 想像とは勿論、違うかもしれないけれど、想像できてしまう。 そんなつまらないことがあるか。ああやってもこうやってもくだらなくなるだろうという時にどうすれば良いのかは誰も教えてくれない。 もう直感に任せて先に進むしかない、それは音楽みたいに。自分がギターを弾くのを止めたって音楽は鳴り止まないのだから。 変なこと考えずに弾くだけかもしれません

ブラジルとか、メキシコあたりの作家の描くもの、の、エネルギーは何だろう。身体を意識させるような絵、 “芸術”みたいなものが想起させるような知識を意識させる絵ではないんだ。 この辺りは、文化デンデンというよりも、血みたいなものは感じずにはいられない。流れている血の違いというのは人によってはビビッドに反応してしまうものだけれど、血の違いは明らかにあると僕は思う。 自分に流れている日本人としての血を上手く使わないといけないな。

2年くらい前、自分は差別についての日記を書いたことがあった。この日記じゃないけど。その時の自分の考えというのは、今でも自分の中で価値のあるものとして燦然と輝いている。
結局、格好良いことを認めさせないといけないということ。 僕はその時の考えに取り憑かれている。
例えば、差別されている人達がいたとして、その後、法律や憲法によって、その差別を無くすことが制定されたとする。
差別は無くなるか。僕はNOと思う。法律が変わったからといって気持ちが一気に変わることができるか。

あの、差別されていた人間が格好良いモノを作った、音楽を鳴らした、これは、認めざるを得ないとなった時。初めて状況は変わる。リスペクトを持った差になるんだ。 世の中決してノーボーダーではない 人種は存在するし 宗教も存在するし 全て一致したとしても各々の個性は存在する。 人間の差は無くならない 人種と宗教という大きなテーマについては蔑んだり、変に持ち上げたりしないというのが現代の考え方のようだ。 僕はそれに完全に賛成する。

只、個性はどうか。 ”俺には信念がある。決して働かない”という人に対して、奇異の目を向けるに違いない。しかしながら、これを言った人が奇異の目を向けられたことに対して文句を言っていても仕方がない。先人と同じ事をやれば良いのだ。ヒップホップのように、これが格好良いということを証明してみせろ。皆のそれが花開いた時に状況は段々と変わっていくのだ

誰だったか、障害者向けの服を作っていた。「あぁ、俺も、今すぐ腕を切り落としたい」と思う服を作ると言っていた。そうだ。そうであるべきだ。皆一緒なんてふざけたコトを言ってくれるな