スナップ写真的思考

今日は、新宿のビルのゴジラをスマートフォンで撮っているアメリカ人っぽいボーイスカウト達が沢山いて、日本人は海外旅行で写真ばっかり撮るから恥ずかしいという言葉には、別にどこの国の人も一緒なんじゃないかと思った日だった。 異国で珍しいものを見た時写真くらい撮るよね その人達にとって、同じ場所に立てる時は二度と来ないかもしれないんだから

そういう形で写真を撮るという行為は、写真を撮りたいという欲望ではなく、写真を撮らなきゃという気持ちに近いと思う。今、写真を撮らなければ今度いつ撮れるかわからないぞ、と。

スマートフォンが普及した現代では、写真を撮るという行為は、一番手軽に、”残す”というコトをできる。 所謂、コンセプチュアルな写真家ではない、スナップ写真を撮るような写真家というのは、とにかく、残すコトに取り憑かれているのかもしれない。
フィルム写真は、撮った写真を見るまでは時間がかかるけれど、”写真を撮る”という行為までは簡単で、だから、、デジタル写真でも、フィルムの写真でも、スマートフォンのカメラ機能でも、撮るまではすぐにできる。

なんだか話がまとまらない、まずい予感がしている。つまり、今、この時を残さなきゃ、という気持ちが程度の差はあれど、皆持っているんじゃないか。これは写真的義務感と呼べるかもしれない。

この感覚が、写真でなく自分の絵の中にもあって、写真程のスピードで無いけれど、今、描き上げなきゃならないというような気持ちになる。何日も何日もかけていたら、この瞬間を失ってしまう。 シャッタースピードを遅め過ぎると写った写真は真っ白になるように、あまり時間をかけていると白紙で良いんじゃないかと思ってしまう。(良くないけど)

そのような形で、構成的な写真ではなく、スナップ写真的な思考が、自分のアートワークにも作用している。 僕はまた一つ発見をしたのだ!! 音楽的思考にスナップ写真的思考が加わったものというのは自分のやっているコトに近いのか。いや、それか、音楽的思考とスナップ写真的思考というものは近いのか。

鳥の声も、人間の足音も、街の喧噪も、音楽と呼ぶことができる。写真はその空間を止める。留める。 いわずもがな、写真からは音楽は聞こえてこない。(これは感覚的な話でなく、実際の話)
もしかしたら、音楽を撮りたかったのに、視覚としての写真を撮っているのか? それでは映像はどうだ。映像の中では音楽も聞こえるし、見ることができる。五感でいうと、視覚と聴覚。味覚、嗅覚、触覚は存在しない。 映像と、リアルタイムの体験の違いも気になるテーマだな。展示というのも視覚と聴覚だけでわかるようなものじゃいけないのかもしれない。全ての感覚に訴えるようなインスタレーションをわざとらしくなく作れないものだろうか??

話が変わる。僕は、映画というものに少しの嫉妬をしてきた。 絵よりも映画の方が迫力がある。伝わるものもある。 音楽よりも映画の方が迫力がある。伝わるものがある。 絵は視覚に訴える。でも、絵は動かないし、音も鳴らない。 音楽は聴覚に訴える。でも、映像は無い。
だからこそ、受け取る人の詩的感覚というか、感受性みたいなものが重要になってくる。絵を見て音楽が鳴る人は、映画よりも絵を好むかもしれない。 僕は昔、音楽を聴いてPVをイメージの中で作るということをやっていて、、 つまり、純粋な音楽には勝手に絵や映像をつけることができるんだ。

やたらとまとまらないのでこの辺りで日記を終わる。 しかしながら僕の中で興味深い発見があった。
1つは人間の中にスナップ写真的思考があること。
2つ目は、総合的なものでなく単体的なものの中に総合的なものより優れている部分があること。それは、想像をかきたてる力、解釈の自由性である。