体系

体系化できないものに関心がある。水彩画、などと名前がついているものは体系化できたということを意味している。私は水彩画家である、とか、そういう風には自分はならないだろう。 もっと名前がつきにくいもの、つけられないものになっていきたい。それは、自分が他人とは違うことを主張するということを意味しない。自分のやり方を正直に追求していけば自ずと名前のつけられないコトをする人間になるのではないかと思っている。 そして、自分のやっていることに自分で名前をつけていく。”ポテズ”のように。 “ポテ”という言葉を僕は気に入っている。ゴミ捨て場に捨てられているキャラクター物の埃をかぶった子供用の椅子。散歩している時にそれを見てどのように感じるか。それが、”ポテ”である。人間でいうと、突然関係のないことを言ったかと思うと、ボーっとしている人。”ポテ”である。

それらは自分の中でもまだ上手く言語化できていない。その感情は言葉よりもむしろ絵の方が表現しやすい。だからこそ絵にしていくのだ。 まだ名前のついていないものに名前をつけていくのが自分の仕事の一つかもしれない。

ポテズが自分に与えてくれたものを今になって考えている。ポテズは僕に、僕だけの体系をくれた。これは自分の23年の生活において大きな意味を持っている。自分はノンジャンルということに誇りを持っている。ジャンルというものが形成された後に自分はそのジャンルだということはひどく簡単で嘘っぽく見える。何もそうやっている人を否定するのではない。自分がやるにあたっては、簡単で嘘っぽいというだけ。 湘南という地域でやっていくならサーフィンの絵を描いたりしてれば一番やりやすかったんだろう。それを自分がやるか?やらない。

何ら大きなバックボーンも根本的な思想も宗教も無い自分が何かのジャンルに所属してやっていくのは卑怯だ。自分が何かに所属する時は自分が作る時だけだ。自分はポテズに所属している。 これからも長い目で所属先を作っていく。 ドローイングはポテズの別の側面や可能性を引き出す作業でもある。自分はアナログでやるとかデジタルでやるとか、こうやって描くというのは絶対やらない。そういう、体系化されたものの中に入らない。 じゃあどうやってやるのか?何も決まっていないのか? その答えは、ポテズをやる ということである。 缶スプレーだって段ボールだって何だって使ってやろうと思うけれど、ポテズをやる。それだけはスタンスとして崩さないようにしようと思う。 決まり事はそれだけ。

こんな大それたことは自分が書くべきことでないけれど、ジェフ・クーンズやダミアン・ハーストは好きじゃないな。アーティストの中でも表現者としてのアーティストではないと思う。 ある種の、皮肉としての装置は持っているけれど、自分の中からでてきたアートという気はしない。そういう意味ではアンディ・ウォーホルもそうか。でもアンディ・ウォーホルは好きだ。なんでなんだろう。 でも、後期のアンディ・ウォーホルに影響されてアートワークをはじめたという人がいたら多分、自分は好きになれない人のような気がする。

そもそも、絵を見て絵を描きはじめたという精神的な位置に自分は存在していない。音楽を聞いて絵を描きはじめたような人が好きだ。表現Aの中に表現Bとの共通点を見いだして行くような姿勢を持つことで今の自分は存在している。地球は地球でしかないのにそれを何かに喩えるのに必死な詩人の感性を持っている。その感性をどう使うかというのが今後の自分の課題となる。

カマシ・ワシントンくらった。