エッセイ始めました

4コマポテズは少し休憩する。 エッセイをはじめました。挿絵を描いて、文を書く。この日記は、研究用の為、自分よがりになっているので、見てくれる人の為の言葉としてエッセイも書いていきます。 “モダン・アートは完成した個々のプロダクトではなく思考や感性を伝える過程にある” というマルセル・デュシャンの言葉。 自分のやっていることが、無意識的にそれに近づいている。

そのやり方と、つかず離れずの距離でできたらなと、思う。 先人の考えにへばりつくのも、別の場所にいるのも、好ましくないのだ。

前述したマルセル・デュシャンの、思考や感性を伝える過程は自分にとっても大切なこと、それは正直に言うと、一つの絵よりも一つの言葉の方ができてしまうことが多い。 だからこそ、自分の言葉で書けないこと、もう伝えようもないこと、それは絵になっていく、 視覚に訴えるものは言いたいことが曖昧なことで言っていけるというような特性を持っているんだ。

あとは、自分の生理的なバランスがある。散々理屈を書いた後に感覚を描けるあの感じは何なのだろうと気になる。 絵の構想という感覚的なものはこうして理屈を書いている時に生まれるものなのかもしれない。 そうだとしたら、この日記をつけている時は、絵のことをほったらかしているようで、毎日頑張って絵の下書きをしていることになる。 そんな気がしてきたな。 椅子に座り、絵、絵、絵、としている時の絵は後に振り返って見ると大したことが無い。 自分にまつわる全ての作業がそうだ、ほったらかしている時間が必要だ。放っておくが、それを意識に置いておく。それは苦しい時もあるが、結局そこから音楽のように生まれたものが一番上手くいく。

高校3年生の時、友人とダンスの曲を作っていた、最初はマイケル・ジャクソンの曲を入れたり、とにかく詰め込んだ作曲作業をしていたものの、煮詰まる。 ひたすら散歩したその後、もう一回統一したテーマで作り直すという作業を友人と一気に行い、あっという間に納得するものができた。あの時、完成品と全く異なる下書きの曲は必要だったか。散歩した時間は無駄では無かったか。
僕は無駄ではないと思う。 下書きで”できないこと”を発見したし、散歩した時間によって作曲中にできたエゴが薄れた五感を持つことができた。熱中して、休憩する。休憩は休んでいるようで、思考がフル回転している。 熱中している時間はむしろ、生まれた思考を作りあげるという単調な作業となる。その中でたまに工夫する。そうすることで散歩している自分と何か作っている時の自分をフューチャリングさせることができるのだ。

絵や曲のようなモノは、意識と無意識の間にあるからこそ、そのような形をしている。意識を表現したものであるなら、言葉で良いのだ。自分自身、何かわからない、未知な要素を持ったモノを作ることに絵や音楽の意義があるように思う