緑一色ZINE

昨日は時間なく日記書けなかった。昨日の早朝、たまたま進出してきた眠気眼の緑一色にZINEを。
緑一色 ZINE
少しの時間だけれど、色々話すことができた。ZINEも渡してみて、結構面白い形だなと思った。その場でZINEを渡す相手との思い出ができる。やっぱり全部手渡しにしよう。店に置くとか、ネットショップで売るとか、そういうタイプのプロダクトじゃないな。渡せた数よりも渡した時の思い出の数を重視する。そこから最高と最高をつなげていく。

そろそろポテズに文字を入れる時期だという意見ももらった。絵本は文字を入れていく。しかしそれはセリフではなくてナレーションと詩の間のような文章。文章はもう書けてる

田舎の不良みたいな気持ちを書いてしまうが、大悟(緑一色)と慧は最高で、切磋琢磨していく仲間だとも思う。 勿論、他にも最高な友達が沢山いる。でも、ジャンルが近いとはあんまり思わない。サンプリングが基本の世の中で、自分の中から生み出そうとしているのは共感を感じるし、すげぇなーと思ったり、俺だったらこうするとか、そういうのが、どんどんでてくる。 絵よりも精神性が好きだと言われたのは嬉しかった。それで良いんだ自分は。絵があって精神性があるんじゃなくて、精神性があって絵があると自分は思っている。社会の中に宗教がある人と、宗教の中に社会がある人の違い。
危ういから日本では触れ辛い領域だけど、本当に自分たちのやっていることは宗教みたいなものなんだなと思う。
自分は無宗教と呼ばれる人間だけれども、宗教というものに非常に興味がある。しかし、それは何か新興宗教に所属するとか、仏教徒になるとかキリスト教の洗礼を受けるとかそういうことではない。そんな日は来ない。今の自分は日本という国でやっていくにあたって、宗教という危うさを感じる言葉を、アートとか、絵という言葉で置き換えているような気がする。

日本という国にずっと暮らしてきたので、他の国は知らないが、思想的な面や宗教的な面が今の世の中には薄すぎる。
全てが数値になって、全ての非合理が破壊された時、適合できない人間は死ぬ。その時、もはや適合できない人間はマイノリティではない。ほとんどの人間が死ぬ。絵本、小説、絵画、音楽、自分は非合理的なものが好きだ。それには、社会の別の面を見いだす機能があるように思う。自分の作るモノも永遠にそうでありたい。そうでなければならない。今は数字にこれらのモノが負けている(多くの人から見ると)これを負かしたくない。ある意味で武器の無い戦争でもある。数学以外の世界の捉え方を作っていく。理屈や理論を学ぶ時は、それをバグらせる為に学ぶ。ずっとそうやってきた。これからもそうやっていく。なぜかって、面白いことになってるんだもん。人の意見を聞くこと。自分は常に、間違っていると認識すること。しかし、本質的には、正しいと信じること。

地球の周りを太陽が回っているのではないというが、それは理屈の話であって、感覚は違うだろう。太陽がアッチからコッチに行ったと思うだろう。そういうことが大事だ。地球の中心は自分だ。それは、宇宙から見て地球の中心は守屋陸央だという意味ではない。僕にとっては守屋陸央が地球の中心で、緑一色にとっては緑一色が地球の中心である。つまり地球の中心は人間の数だけある。自分のことを中心に考えるはずだ。自分からは24時間離れられないのに感覚として他人が中心になるはずないだろう。自己中心的でない人間がいるとすればそれは仏陀でもない限り”隠す”ことが上手いだけだ。他人を中心っぽく見せることで自分に利益があると思っている人間の行動だ 自己中心的という言葉は完全に、本当に完全に誤解されている。この意味を変革したい。

緑一色に渡したZINEはパキ君を描いた。”あなたにとってのZINE”ということを考えて毎回描こう。渡す一回一回を大切にする。