ラップ

会話の中でラップっていうのは日常の出来事の集合体なんだって思った。
宇宙も、灰皿も同じテーブルに乗る。大きさは関係ない。ラップする人間によっていくらでも変えることができる。宇宙はスケールが大きいから何十分もそのことについてラップしなければいけないというルールは無い。ちょっと宇宙の話をだしてその後に灰皿について延々とラップしていても良いのだ。そう考えると絵みたいで面白いね。絵の中では宇宙のサイズより灰皿の方が大きくたって良いんだ。そのスケールやサイズは全て描き手に委ねられる。しょうもない日常を大きな哲学とすることもできるし、偉大なことを雑言にすることもできる。その言葉を幾つも重ねてラップの曲っていう建築物ができる。言語のコラージュによる建築

自分の4コマというのも、一個一個が作品というよりも、描きあげていく活動をするという作品なのだ。幾年もかけて一つの絵を完成させるのではなく、一個一個の絵を積み上げていって絵にする。

というわけで今日はラップについての気づきがあった日。そういえば、貸してもらったモンティ・パイソンを見た。僕はこれについて学ばなければならないと思った。あと無言劇。チャップリンみたいな。ポテズムービーを作る感性を完成させたい。韻を踏んだ。 これから絵の為に人工衛星をちょっとずつ調べてみようと思う。個人がコラージュで作る人工衛星はどのようなものになるか。人工衛星は探査機であるというのも面白い。

物書きという人は気になる。物を書く人はどういう人か。それはとにかく、文章を書く人だ。とにかく文章を書く人とはどういう人か。 文章を書くには文章を書かなければいけないわけで、それ以上分割できないようにも思うけれど、その根源には、何かを感じているというエネルギーが無ければいけない。何も感じずして物を書くことができるか。いや、できる。それは例えば、今日の朝飯は何だった。今日は何円使った。という、アクションを羅列していくこと。

その先である。朝飯は何だった。それで? こういう気持ちになった。 そこから文を書くことがはじまる。永遠に それで?と自分が書いたものに問いかけ続けることができる人がとにかく文章を書いていける人である。

つまり自分の昨日や一昨日の日記を反省しなくてはならない。どうせこうなっているのさというのは書く姿勢ではない。なぜそうなっているのだと噛み付き続けることができるか。どうなるのかわからない、偶然を愛するという心構えはできた。そこから次のステップも考えていきたい。 偶然そうなって最高さと言いながらなぜ最高か考えることも大切にすること。 この日記によってそれをまとめていきたい。

こうやって書いていて思うことは、自分が今日書いたこの日記が、明日、他人が書いた日記のように見えてしまうことだ。昔、作文の授業なんてものがあった頃からそうだ。本当に自分が書いたのか。それは、離人症とか、そういうことではなく、新鮮な気持ちになる。こいつは、こう考えているのか。と、”こいつ”と呼ばれている自分が思う。実は自分が何を考えているのかは自分にはわからないのかもしれない。 日記を書いている時は少しだけわかっている。 明日にはその少しだけわかっていたことを忘れてしまう。だからこそ残していく意味がある。それを積み重ねて自分の考えという名前の建物を頭の中に作る。新国立競技場ができる頃には発電所くらい完成している予定 つまり核の部分