タイトルなし

タイトルつけられない日が大半だね。いまはすごく疲れている。なんというか、上の世代の人達の方がうまくSNSとか、インターネットというものと付き合っている気がする。もしかしたら25歳くらいまでスマートフォンとか持たない方が良いのかもしれなかったね。世界と繋がっている気すらしてくるし自分でもできるみたいなヤツがでてくる。自分もそうだったかもね。ジャマでーす youtubeでお金を稼ごうとか勝手にやっててね

データではなくて感情で人間は動いているのだ。一人一人が出会う感覚と社会というものの違いは何か。一人一人が出会う感覚を集合させたものが社会ではないのか。死者1名は悲惨であるが死者3万人はデータになってしまう。どうしてそうなるのか。自分の友達が3万人死んだら自分も死ぬだろう。しかし、そんなことにはならない そして、一々画面の向こう側で話されるの死者の一人一人に共感していたら生きていけなくなってしまう。 だからといって開き直って良いのか。その情報によってある種の生きている重さを感じているべきではないのか。そうでないとすればニュースというのは何なのか。存在する意味があるか。だからこそ自分はニュースという情報の集まりをもう見てはいない 見たところで何もできないことを感じ、実際に何もできないからだ。知った所で何も行動できず、何も感じられないものを知るコトに意味があるか。それは知ったと呼べるのか。呼べないのではないか。そうだとすれば自分が知っていることはほとんど無いことになる。少しの音楽のことと、少しの絵のことを知っているだけだ 人は好きなものしか知ることができないのかもしれない

情報ジャンキーになるよりかは感覚ジャンキーになろう。言わずもがな、自分は麻痺しているわけです。江戸時代の人が見て趣を感じた茶碗を平成の自分が見て何も感じないようになってしまっている。危惧を感じていなければ。その時の気持ちになれる日を夢みる。麻痺しきった人間にはわかりやすい共通の記号が必要になる。一言で金。それはいくらだ。すごーい これはいくらだ、生活が とか言いながら死ぬだけでしたとさ。おわり