混ざってる人

久々に酔っぱらっていない。
今日は久々に具象的な絵を描いた。その中に抽象的なテクスチャが混ざっているのが良いなと思った。気持ちは混ざっているのが普通だと思う。
あと、何時間かけたとか、努力みたいなものは偶然的なものとの相性が悪くって、一つの微妙だったドローイングに信号機を描いたら俄然良くなったのは、頑張って思い詰めてできたものでなくて、信号機を描いてみようっていうただのノリでした。
まあこれは、人によるんだろうな。ひたすら努力してきた人は努力は必ず報われると信じたいだろうし、怠け者は運が大事だと信じたいだろう。誰だって自分の思い出や、してきたことを肯定したいという想いがあって、肯定する理由は幾つも見つかる。
それならわざわざ誰が間違っているとか誰が正しいとかやる意味も無いと思うな。全ての言葉には”自分にとって”っていう言葉が前につくと思う。自分にとってこの人が正しいから総理大臣になってほしいとか、そういうことで、それは誰かにとってはすごく間違っている それなら、”正しい”っていうのは”好き”って言葉に、”間違っている”っていう言葉は”嫌い”っていう言葉に置き換えられる。
政治みたいなパブリックな場所では、主観を排する考えが主流の為、好きとか、嫌いっていう言葉は幼稚なものとしてバカにされている。だから便宜上、正しいとか、間違っているとしなければいけないわけで、個人的な生活においてその言葉がでてくる生活はやめよう。
画用紙に描くと、画用紙が人みたいに思った。雑に描けば雑にクレヨンの痕跡が返ってくる。丁寧に描けば丁寧が返ってくる。
態度や吐く言葉が画材だ。特に僕の場合はどうしてもこのテーマの何かをイメージ通り描きたいというタイプでもなくて、どんな絵になるのかが見たいという、純粋な興味に基づいたタイプなので、意外な絵になって返ってくることがよくある。自分で描いた絵に自分で、結構良いじゃないかと驚いたりしている。ライカ、パウル・クレー
イメージってなんだろう。イメージ通りって言葉を書いて思った。 イメージってどこにあるのか。たまに、他人の身体になってみたくなる。もしかすると、全く違う世界を生きているのかもしれない。 一年後のこととかが、ありありとイメージできて生きている人もいるのかもしれない。そういうのが全くできない。それは不安定な暮らしだからとか、そういうことではなく、安定していた頃からできなかったように思う。イメージができないからイメージをするために移動したり行動したりしてみる感じで23年暮らしてきて、そんな人には目標とか完成予想みたいなことは無理なのかもしれない。ずっと未完成に向かって飛んでいく