見る

東京都美術館、ポンピドゥー・センター傑作展行った。 相変わらず全くテキストが読めない。1行目だけ読んでもうそこから進まなくなってしまう。美術館は面白いなぁ。鑑賞の仕方の違いが見えるからだ。作家の名前と顔写真が作品の隣があって、おばさん達が、この人はイケメンね、なんて言ってた。見ると確かにイケメンだった。

カミーユ・ボンボワに興味を持った。元々はサーカス団員?で、パリの絵描きたちを見て自分も絵をやってみたくなった人だという。僕が見たのは「旅芸人のアスリート Carny Athlete」という絵です。無表情な大勢の人たちの前でムキムキの男が馬鹿でかいダンベル?を持ち上げています。 なんとなく、アンリ・ルソーを思う感じのやつでした。 と、思ったらカミーユ・ボンボワもルソーも同じ
素朴派に分類されているようだ。 素朴派:「画家を職業としない者が、正式の教育を受けぬまま、絵画を制作しているケースを意味する」 というのは面白い。 つまりは絵画の内容ではなく、「どのような状況で絵を描いているか」ということに焦点をあててこのように分類されているのだ。 

やっぱり見るのも絵が好きだな。それも、主義や理念やコンセプトが前面にでてくるものよりも、ただ愚かにキャンバスに定着させているのが好きだ。社会構造の分析に悩むのでなくて、社会の中で悩んでいる感じのやつ。あとは筆致とか筆跡と呼ばれているものが好きだ。たぶんそれは2016年に自分が生きているからなんだと思う。センスの良い配色みたいなものは現代の方が多いかもだけど、筆跡の総数は2016年よりも1916年の方が多いはずなんだ。なぜかって、携帯電話もパソコンもないからね。描いたりイメージを伝えたりするためには筆跡が必要だったんだ。

そう考えると、歴史を見る上で人が求めるものは現代との差異なのではないか。今、失われた、もしくは失われつつ、減りつつあるものを歴史を見ることで補完して、バランスをとっているのかもしれない。合理的な時代に非合理的な時代を見たくなり、東は西に興味を持ち、西は東に興味を持つといったような感じ。飲みすぎた次の日には静かに味噌汁を飲みたくなるように、どこか中間と呼ばれる地点に戻っていこうとする力が働くのではないか。 そこに全人類共通の中間というものはなくて、個人それぞれに中間がある。

今日思ったけど上野好きだ。スマートに洗練された格好良さよりもごちゃごちゃした混沌とした格好良さが好きだな。混沌の中には入り込める余地を感じたり、、つまり何かできるという気にさせてくれる。今まで行ったところに、いくつかそういう場所がある。高円寺もそうだ。あとは横浜の港近く。あと、バンコク。