知る

「知る勇気を持て」というのはカントの言葉。 知るというのは実は難しいのです。でも勇気を持って知っていこうと思った。やりたいことをやろうとかそういうことではなく、只知るだけでやりたいことはやらざるを得ないことになっていき、いつの間にかそれをやっている人間になっている。 昨日は現代美術を勉強している人のブログを読んでいて、今自分の考えていること、もしくは考えた後に出た結論というのは既に先人によって発見されていたことが多いコトを知った。
それはとても複雑な感じがする。 先に知られていたのか、という気持ちと、答え合わせして合っていた という気持ちの両方がある。

1800年代にカメラと映画が普及して、”リアルに絵を描く”という行為にアーティストは意味を見いだせなくなった。 肖像画家の人達の仕事は写真という技術に奪われて、絵描きは絵なら絵にしかできないことをやってやろうという気運が高まる。
クレメント・グリーンバーグの論文には
アートはそのメディウムの特徴を追求するべき 絵画なら絵画の特徴である平面を追求したものを作り上げるべき(メディウム・スペシフィシティ)
ということが記述されている。(しかし、2000年頃からはロザリンド・E・クラウスという人が”ポスト・メディウム”ということを言っているのだが…)

ポテズのアイディアは明らかにこの、(絵画なら絵画の特徴である平面を追求) という所から来ているように思う。

僕は昔から様々なコトに手を出してきた人間の為、”やる内容”によって向いていることと向いていないことがあることを知っている。 絵で音楽を描くみたいなことを考える時があるけれど、実際に描くのは絵である。
例えば、迫力を伝えるのには絵よりも音楽の方が向いていると思っている。もっとミクロに見れば視覚的な体験よりも聴覚的体験の方が迫力を得ることができると思う。
そして、ポテズを描いている時に思う言葉、”センチメンタル”という体験は、視覚的体験の方が合っているのかな、という仮説を持っている。 あと、絵は”残る”ということも大きなポイントだ。 聴覚的体験というのは過ぎ去る。 視覚的体験は残る。
そうであれば僕はプロダクトを作らない理由がないのだ。 レコード、CDっていうのを棚に入れるとして、その時、棚に入れるのは”音楽”じゃなくて”レコード”、”CD”っていうプロダクトだ。 精神的、感情的な気持ちを取り除いて考えれば 音楽を持ち運ぶという行為は絶対にできない。音は触れない。ものすごく冷静に考えれば音は聴覚にだけ訴えている。 しかし、ライブであれば演奏する本人が望む望まないに関わらず視覚にも訴えている。 そんな風に思う。この日記で自分が書いたことも、先人によって空間芸術、時間芸術という風に区分されていてる。 もう言葉は当てはめられている。 当てはめられない場所は何処かということは、当てはめられている場所を知らなければ知ることができないな。言葉を作る為に既に作られた言葉を知らなければならない。