大事な日

今日は日本にとって大事な日らしい。”らしい”になってしまっているね。これは、情報格差ではない、感度格差である。情報自体は普通に生きていればそれなりに入ってくる。感覚がどこに向くかで得られる情報は異なる。

どうなるにせよ、自分にはこの時代の熱が羨ましいな。何が正しいのか、どうあるべきなのかをもっと本気で考えていたように思う。正解は無いというのは、達観しているようで、実はとても簡単だ。何に対しても、その態度で臨むことができる。楽だ。
アポリネールは、詩には退屈の扉、皮肉の扉、新世界の扉の3つがあると言った。そして我々は新世界の扉を開くべきだと。退屈なことは簡単だ、面白い皮肉も簡単だ。何でもかんでも斜に構えてれば良いのだから。新世界は難しい。”新世界”だなんて、いかにも中二病なことをやっていくのが実は正しいのだと。皮肉は相手に対するカウンターであって、率先して皮肉を言っていくことはできない。国会議事堂の前で阿部の風刺画を掲げていても仕方が無い 新しい絵を描かなきゃいけない。

そんな訳もあり新しい絵を描いているのですが、果たして、これが、政治にまで届く日が来るのでしょうか。恐らく、ダイレクトに直結する日は永遠に来ない。考えるに、絵はもっと間接的なものだ。世の中と独特の形で対峙していくもの。そういうものが既に描けている。これを続けて行かなければならない。政治を変えるには政治家になるしかない。しかし政治を変えると思わせる力が絵や音楽にあるのだと思う。都合の良い考えの自分はその位の立場が好きなのかもしれない。
三島由紀夫も元々は芸術史上主義者で、政治には関心が無かったというのに、ああいう最期を遂げたことは、恐ろしいけれども。(思想や関心は変わっていく可能性がある)

そんなことを徒然と書いていて、自分の絵を見て、この絵は政治的な感覚を持っているか。持っていない。だけれども、それで良い。なぜかわからないけれどそう思う。パッと重いタイトルが浮かぶような絵を描きたくない。が、安易に魅力的だの、色が良いだの、そういう言葉に逃げたくはないのだ。矛盾している気持ちは常に持っている、でももう良いんだ。常にギリギリなイメージは持っているのが普通だ。楽な気持ちは諸刃の剣である。