似てるということ

今日は全感覚祭に行った。しかしいかんせん飲みすぎたのである。ハリボーにウォッカが混ざっているのを食べ過ぎたとも思う。
その日のことをその日に振り返ることは難しいので今日のことは書かない、とっても素晴らしかった。

帰り道、京急多摩センター駅で電車に乗り、寝てしまう。目が覚めると京急多摩センター。しかももう終電は無かった。一体何をやっているのだ。そんなわけでこの日記はネットカフェで書いている。このパソコンはキーボードが出っ張りすぎていて書きにくい。
昨日散歩している時に渋谷、あるいは都市というのは人間に似ていると思ったわけだけれど、今読んでいる世界の絶景パレット100という本を読んでいると自然も人間に似ていると思った。いや、それはおこがましいだろうか。人間が自然に似ているのか。 こうやって考えていくと世の中のもの全てが人間に似ているのではないかと思ってしまう。全てを関連付けて考えられないのは自分が何も知らないだけで本来は全てに共通するものがあるのではないか。その共通する法則を見つけようとしているのが芸術や科学や宗教なのだろうか
その全てに関連性を見出して無駄なものを削ぎ落としてそれに本質という名前をつけてシンプルに作っていくことが洗練されたプロダクトと呼ばれている。 iPhoneっていうものは一つの答えだ。
でもそれは一つの答えであってまだまだ沢山の一つの答えがあるという風に思う。 学校のテストで答えを二つ書いても×がつけられるように、一つの答えというからには何か一つ、これと言わなければ駄目で、それは別の答えとは一見して相反するものだったりする。絵を描く人達の歴史を見ればそれぞれの人がそれぞれの人の答えをだしていて、それが他の人の答えと違うからおかしいとか、そういうことでは無いんだなー。 政治的なミュージシャンが、音楽を使って政治を動かそうとする姿勢は好きだけれど、音楽はあくまで音楽と言って音楽をする人も好きでいる。 自分の好きな音楽を思い出すと、てんでバラバラだ。どのジャンルにも格好良い音楽がある。絵も、人もそうだ。 レゲエだから好きとか、ヒップホップだから好きとか、ロックだから好きとか、政治的だから好きとか、そういうのは嘘だと思う。僕はその人、その人達が必死でだした答えみたいなのが好きなんだと思った。
好きなものを聞かれて言葉に詰まる意味が少しだけわかった気がする。自分も必死に答えをだしていこう。別にそれが間違っていても◎