歴史

今日は散歩をした。藍書店でみた、gqという雑誌の1972年頃のを見ると、自分に似た絵を描く人、というか自分が似てるのか。が、いたので、なんとなく歴史を感じた。そしてblondieというマンガを見つけたので見ると、これまた中々僕は似ている。いまwebでカラー版を見ると、当時の印刷技術の影響か、色のついた点が紙面上に多用されていることに気づく。あとは、印刷ミスっぽい色のはみ出し。しかしこれらのミスを愛する人達が今現在生きている人達の中にいることが面白い。服でいえばそもそも最初から古着の服など存在しない。デッドストックという言葉は、新品として生産されたことを意味している。ベテランはいつかの新人だし、老舗の店は元々はできたばかりの店なのだ。大人は皆赤ん坊を経験している。5月9日は東京蚤の市に行こうと思っている。今年は古着のコーナーもできるらしい。2015年ほどヴィンテージというか、古いものを愛する人達が増えている年も無いんだろうな。そしてこの理屈は継承される。多分。2050年なんかは凄まじいことになっているかもしれない。俺のは、1970年のやつだ!!!みたいな人がもっと増えてるんじゃないか。(それはそれで考えものだけど…)

古いもので事足りると困る人がいるのかもしれない。今の自分なんかは新商品!! なんて書かれるよりも旧商品!! って言ってくれたほうが魅力を感じる。これは多くの人に通ずる感覚のような気もする。なぜかって、古着屋にしろ、DJにしろ、キュレーター セレクター?にしろ、やっていることは本質的には同じだと思うから。そういう人達に尊敬、と共に、自分はそういうタイプではないので、新商品というのを作っていかなくてはならない。でも、もうサマーセールだの、ウインターセールだの、そういうことでは無いことはわかっているので、何にしても、個人的なものを作っていこう。なぜ、普遍的と書かず個人的と書くかというと、普遍的なものというのは、それももう既にあるからだ。否、これからさらに、普遍的なものというのがバージョンアップされたり、新たに普遍的なもの、もしくは普遍的なアイデアがでてくる可能性は大いにあるし、実際にでてくると思う。しかし、自分が何かをしていくにあたって、そういうものを作る才能があるだろうか? あるだろうか?と考えている時点で、無い。

無いし、別にある必要も無いと思っている。全ての人を動かすもの、宗教にしろ、政治にしろ、学問にしろ、アートにしろ、何にしろ。そんなものは一つもないのだ。つまり、普遍というのは特定のコミュニティにとって普遍ということであって、他人にとっては何でも無いことなのだ。強いて言うならば、重力とかか。

普遍的なものを作るのだと自負することは、ある種の傲慢さや、他人に対する行動の強要をすることを意味する。個人的なものを作るのだということは、誰にでもできるし、簡単に言うと、無害なアイデアだ。でもそんなことをやっていく。個人的なアートワークというのは、地球の日本に住むある時代のこの人物が、何かを感じて何かを描いたとか、何かを歌ったとかそんなことで、中々ロマンチックなことじゃないかと思う。時代は個人