百芸は一芸に通ず

一芸は百芸に通ずという諺がある。 一つのことを極めていけば他のことにも優れた才覚を持つということで、この感覚というのは諺になっていることからわかるように昔からある感覚なのだろう。その逆に、百芸は一芸の精しきに如かず 多芸は無芸 何でも来いに名人無し という諺があるように、色んなものに手をだしたりすることは悪いことのように考えられている。

そんな諺がある中で自分が明らかに多芸派であることに苦しさを持っていたが、今はむしろ百芸は一芸に通ずるのだという風にも考えている。それと同時に一芸が百芸に通ずる感覚も理解する。 つまりどちらから入っても良いのだ。一つの芸を極めていくのも、あらゆる芸に手をだしていくのも。 一つの芸に時間をかけ続けるのが苦しい人は他のことをやってみても良い。

レオナルド・ダ・ヴィンチも元々はミュージシャンとしてミラノに行ったという。そもそもフィレンツェからミラノにでてきたのも、フィレンツェの教会から頼まれた仕事が終わらずに、半分逃げてきた状態だったのだという。人体を解剖するという行為が見つかれば死刑になる時代に、興味が抑えきれず人体の解剖を行いそれをデッサンしていく。そしてなぜか後にモナリザを描く。 その姿勢、一芸を極めて次の芸を身につけ、というような生き方をしているとは思えない。色んなことを同時に考え、同時にやっている。 レオナルド・ダ・ヴィンチが生きていた時代、ルネサンス期には建築家と画家と彫刻家を全て兼任していたような人がいて、その人達は様々なコトを同時に行うという所から入っていると思う。建築の理屈を画業に持ち込み、それを彫刻に活かして、という風に。 ルネサンスという時代を経て神様中心の考えから人間中心の考えが流行した 前述した、人体の解剖が禁止されていたのも神の創造物である人体というものを解剖するのは神に背く行為であるという理由からだ。
それ以前まで見つかれば死刑になっていた行為がむしろその後に推奨されていくようになるプロセスも面白い。

人間中心の後の時代は機械中心となったと思う。今は機械中心の時代だ。そして神様中心から人間中心というムーブメントのように機械中心から人間中心というムーブメントが今起きていることだ。 オーガニックとか。第二期ルネサンスと呼べるような時代に生活していることになるな。これを面白く捉えていこう。システムが時代に耐えられなくなった時に人が動きはじめて カオスな中から何かを作り出そうとするようになる

完全に話がそれた。