おちつき

頭の中で色んなことが動いているだけで身体が動かない日を過ごした。散歩して絵を描いただけ だけど本来の絵描きなんだとしたらそれで良いんだけどな。本当は。
今日は歌詞無い音楽を聞きながら作業しよう。人の声は気持ちを動かす強い作用があるな。なんでって、人間のシャウトなんて聞きながらパソコンなんていじれない。すぐに散歩のコーナーが始まってしまう。今はテクノ?的な音楽を聞いている、自分の中に入っていけるような感じがある。音楽を使って自分をコントロールすることを学ばなければならない。

落ち着きがなくなると他の人はどうなんだろうと考える。落ち着いて、ぶれずに前だけを見て進んでいる人がいるのだろうか よそ見をしないことの難しさは感じない人がいるのだろうか
昨日Twitterに、今日も生き延びれたみたいなことを書いている人がいて、そのフィーリングは僕もわかる気がした。本人にとっては大冒険みたいな一日はデータにしたり、他人からぱっと見ただけでは冒険ですらない普通の一日で、怠け者にすら見えるかもしれないのだ。
一般的にこうなっているというルールは存在しても一般的にはこう感じるというものは存在しないのではないか。
戦争みたいなショッキングな出来事が無くても、なぜかショックを受けている人というのはいるように思う。一つの本を読んで人生が変わるようなショックを受けた人、同じ本を読んで何も感じなかった人 その違いがとても気になる。 僕はどちらかというと何も感じなかった方だ。 しかし、ショックってそんなに、稲妻みたいな感じなんだろうか。 これを期に人生が変わった! みたく思うものだろうか。 じわじわ来るショッキングな出来事もあるはずです。小さな違和感を数えきれないほど集めたら大きなショックよりも大きくなる日があるだろうか

あと、寝るっていうのは。他のどの行動とも違う種類の行動だな。絵を描くのは絵ができる。ギターを弾くと音がでる。 隣の駅まで歩くと隣の駅に着く。 寝るのはただ時間が経って、3時だったのが9時になっているだけ。
行動の前に よっしゃあ っていう言葉をつけることができないのは寝ることくらいなのではないか。 よっしゃあ絵を描くぞ よっしゃあギターを弾くぞ 仕事するぞ 勉強するぞ 学校に行くぞ 飲みに行くぞ

よっしゃあ寝るぞができるか。寝なければならない寝なければならないと念仏のように思う度に眠気が離れていく。静かに、聞こえてくる音が換気扇の音と扇風機の音しか聞こえない時には寝る前の意識は自分の考えや明日の予定に向いていき、眠れないまま時間が経つ。 逆に、修学旅行のバスの中のうるささがBGMになって心地よく眠れたことがある。あれは何なんだろう。音楽もそうだ。音が混ざりすぎた音楽を聴くと眠れる時がある。
トランス音楽と禅が遠いのに結びつくことは面白いことだ。ありすぎることは何もないことなのかもしれない。うるさすぎるのは静かなことなのかもしれない 一つの紙に絵を描きすぎればただの黒い紙になるのだ。
迷悟一如ですね 今日はうるさく落ち着こう