2021年7月28日

2021年7月28日

今日はドローイング1枚。 4枚描いたけど3枚は上手くいかなくて描いている途中で捨てた。エコのかけらも無いですな… 正解に疲れきったことを確信してきている。 間違いだって良いと思うことは自分にとって勇気のいることであった。もはや全ての正しさに合わせることも物理的に無理であるし、特に自分がそうすることに魅力を感じていないという今、自分の生活や思考や制作から魅力を生み出していきたい。そしてそれは間違っていて良い。ていうか間違っていると思う。

油断すると大きい絵を描こうとかしはじめるので禁止!! 大きいスペースができたらね。いつかできるから落ち着こう。 3ヶ月前くらいまで床や壁にビニール袋のつぎはぎを貼り、自宅兼アトリエみたいにしていたのだがスペースが狭過ぎることに苛立ち、一人でぶちぎれていた。 自分の計画不足で勝手にイライラして自爆するのやめたい。それは自分のせいだ。頭がおかしいのではないかと思う。

計画しよう。それは正解に対してでなくて魅力とか心地よさに対してにしていく。 作るものはまだまだだけど作る人としての心得がだんだん成長してきている。 それは誰にとってもそうだということでなくてごく個人的なこと、自分にしか適用できないかもしれないけど、自分はこうやるよということ。それが何か形になって自分の思ったこととは違う形で受け取った人が何かをはじめたり考えたりするってことをロマンに感じている。誤解をされるかわりに僕も誤解をしている、全てお互い様なのだ。 もう一枚ドローイングをして寝ることにする。明日も楽しみだ。

2021年7月26日

2021年7月26日

日常とドキュメンタリー動画の違いって何なんだろなと考えている。絵から文章から写真から動画から、 ある意味全ては記録媒体。 動画が一番リアリティに近いというのは本当なのかな。ずっと自分から離れた地点を見ていたい。さして考え込むこともなく空想や幻想を抱けるからなのかな。つまらないリアリティや科学がこそ空想を発見したいと思っていることを感じる。 そんな人ばっかりだと駄目なんだけれどいかんせん絶対数が少なすぎる、希少価値を探してネームバリュー的なものにしたい人からしたら空想族をチェックしたら良いのではないかと思うけど中々そうならないな。 根が暗いので明るいことを書いていたい。 それこそが複雑さを含みつつ何気に生きていちゃえるディープさなのではないかと思っている。

2021年7月25日

2021年7月25日

久々に焼き魚を食べた。焼いた魚のぷりぷりの部分の食感って他のもので感じたことが無い。美味しい。海沿いの地域では魚を良く食べ、山岳地帯では良く山菜を食べるという。まぁ当たり前か、前に海、後ろには山みたいな場所、めちゃくちゃ良いのでは。山形は海も山もあって、気候も涼しくて、食べ物が美味しい。子供の頃何回か蔵王に行っただけなのでまた機会があったら行ってみたい。地の利っていうのはあるな。 って、ある良い場所と無いダメな場所がっていうのがあるわけでなく、それに向くか向かないかというのがあるなと思っている。 作物を育てる人やワインを作る人というのはそういうことを考えているのかなと思う。 僕もそういう人では無い人としてだけれどそういうことを考えていこう。

喉が渇いてMATCHという炭酸水を飲んでいる。 いっつもいろはすにしていたのだけれど贅沢に喉を潤したい時は炭酸水にする。シュワシュワと味が心地よい。コーラは喉を潤す感覚が無いけれどソーダ系の飲み物はそれがあることに気づく。 って、コーラが嫌いなわけでは無く、喉が渇いた時はソーダの方が好きだということ。 TPOに応じて好みが変わっていく。変わらないものもあるけれど変わるものの方が多い。 僕の場合は音楽はこれがものすごく、なんでそんなに変わるのだというくらい幅を持ってしまうが視覚的なものはあんまり無い。こういう時にこういう色を見たくないとか、そういう感覚というのは生まれもってのものなのか、後天的にでてくるものなのか?? 今、黄色じゃないわぁとか思ったことがないし言っている人も見たことがない。 どこかにはいるんだろうな。

前にカラーコーディネーターというのに興味があって色彩検定という資格を取ったことがあった。あの時の勉強、結構面白かったな。本を買って勉強したメインの内容もそうだが、ちょくちょくちっこく載っているコラムのコーナーみたいなのが面白かった。イギリスの自殺の名所ブラックフライヤーズブリッジという橋を緑色に塗って自殺者が減ったり、荒れ狂う学校の蛍光灯の色を青みがかった色にして校内暴力が減ったり、 アメリカでは大統領の演説の内容に合わせてネクタイの色を選び、生計を立てている人がいるのだという。 とか、そういうことでむしろメインの内容よりそういうことだけ頭にこびりついてしまっているのが気になる。 もしかすると学ぶということの本分はメインではなくサブの部分にあるのではないか。 脱線話の方が良く覚えていたりする。 何かを達成した、できなかったというのもそこにまつわる部分の方が自分にとって大切なものだったりする。

とにかく暑い。クーラーが動かないので扇風機を強にして首も振らさずパンツ一丁で風を浴びる。。 日記書き終えたらいろはす買いにいこうかな。 熱中症になるわけにいかないからな。

風、で思い出したけれど植物を制作のヒントにしていこうと思っている。 今までほぼほぼ興味が無かった、しかし興味を持ちたいと思っていた植物。 ここでなぜ興味が無かったのかというのを考えてみる。 それは、風、雨、雪によってしか動くのを見れないからだ。 僕は動かないものより動くものに興味がある。 植物と動物や虫を比べた時に、動くかどうかというのが結構大きな違いだと思っていて、 やっぱり動物や虫は走り回ったり跳んだり飛んだりするけれど、植物というのは基本的にドンと立っていたりゆらゆら揺られていたりするだけで、視覚的な刺激というのが少ない。 ちなみに聴覚的な刺激も少ない。鳴いたり喋ったりもしないのが植物なのだ。いや、鳴いたりする木もあるのだろうか? 全部の木を見たわけではないのでなんとも言えないがおそらくないだろう。

喩えるなら動物や虫はアニメーションで植物はイラストレーションだ。動と静。しかし同じ町並みの中に共存している。動物には人間も含まれる。 良くイラストレーションとしての植物を観察してみると、動物には無い、無さそうな形が至る所に現れていることに気づく。 木や幹の輪郭もそうだが、特に葉や花が面白い。さすが、動かないということを前提に暮らしているだけあってすごく繊細な形をしている。 薄い、細い、とか。 骨格というものから自由な存在だ。こういう所から学べると思うと、師匠がそこら中に生えているという恵まれた環境に僕はいることになる。植物から学びたい。弟子入りします。

2021年7月24日

2021年7月24日

パソコンの調子が良くなく日記を書くのが止まっていた。ドローイングは具象を含んだ抽象的な感じになってきている。筆跡の否定を繰り返して新しいレイヤーを作る。作るというか、できる。自分の意図したことがそのままというような感じではなくて、どこかミステリアスな他人のような雰囲気で接することができたら良いなと思っている。 そっちの方が飽きずにいられるというのと、自分が持っている可能性みたいなものを超えたいというのがある。描くものに筆で連絡をする。 と、一応の枠組みは自分で持っておくということが大切だな。なんだか取り留めの無い考えだけれど、絵を描くにはこの位の意識の使い方が良いみたいだ。あんまり理屈がバッチリ定まっているよりはわかることは50%くらいの方がやりやすいというか、絵にしたり、理屈以外である理由がでてくる。 最近は行っていないけれど、美術館やギャラリーに行くと大抵作品や作家のキャプションがあって、それを見て、なるほど、わかりましたみたく思ったことが無い。このことを、いまいち僕は要領を掴めていない人間というか、ちょっと馬鹿なんだろうかと思ったりしたのだけれど、それで良いのだ。キャプション、テキストだけでわかってしまえば絵があったりしなくても良いのだから、作家の人としても何か考えを100%伝えたいというよりはある種のエネルギーのようなものを作って考えというのは鑑賞者に委ねるという方が良いのかもしれない。というか100%伝わるということはおそらく無いので、そんなことは最初から諦めて、誤解や曲解も含めてしまうような形を作るというのが現実的なことなのでは。そしてそれは悲しい話とかではなくてロマンでもある。 そんなわけで、色んな頭を使えるようになりたい。 こういうテキストのテンションでビジネスメール的なのを送っちゃダメだ。 逆に正確に伝達するというテキストのテンションは何かを作る頭には合わなかったりするとも思う。 日本語を使い続けていてもその中でも何カ国語も使うような感じになっていかねば。 例えば、何日までにこういうのを描く。とか、そういうことは伝達だったり約束だったり、そこにはYES or No 達成なり未達成なり、そういうことがでてくる割合と世間的な言語であって、それはそれでできるようにしていこうとしているが、その頭で作ることに向き合うと割とせせこましいというか、もう少し柔軟であった方が良いのではないかとなる。 ここでは私の小宇宙が! みたいなことで全然良いのだ。

わけわかるがつまらないものに寄らず、わけわからなくもならずにできあがるものを高めていららればきっと良いものになる。

デニムのペインターパンツを洗濯して調子が良い。洗濯する前より身体に馴染んできている。シュリンクトゥフィット。 こういう最先端ではないアナログな科学みたいなものが好きだ。 炭を置いとくと消臭ができるとか。 そしたら消臭剤ってなんなん、それでできるんだったら みたいな。何気に昔からできることであった。 とか、手間はかかるけれどこうしたらできる。とか。 洗濯機が無い時代にも洗濯をしていたわけで、テレビやネットが無い時代でも人は生きていて何らかの方法で情報収集をしたり発信をしたりしていたわけだ

2021年7月18日

2021年7月18日

沢山身体を動かしたので良い感じに疲れている。 自分は多少疲れていた方が冷静になれて良いな。 特に絵を描いたりこうして日記を書いたりする時にそう思う。有り余っている時は踊り狂ったりしてる方が楽しい。 奈良美智さんとパンクバンドの人の対談?みたいなのを紙面で読んだことがあって、歳を取ると体力は落ちるけど体力を使うタイミングがわかるっていう言葉をなんとなく思い出している。 僕はまだまだ力の入れどころをわかっていないのだろう。 ただ、力みまくった思い出があった方が良いとも思う。 全てをクールにこなした人生だったと振り返ってもモヤモヤする気持ちがでてくると思う。 やや、精神論はもう少し弱めにしていきたいのだった。もっと他のことを知りたい。相変わらず電車では鎌倉謎とき散歩を読んでいる。この本、100円で買ったのにこんなに楽しめちゃって良いのだろうか。 とにかく古本の値段というのは謎である。 結構、将軍の名前が難しくて読めなかったりするがその時は勝手に推測の名前を当てはめて読んでいる感じがある。つまりそんなに真剣に読んでいるわけではない。 なんかそういう、肩肘張らない読み方も良いなと思った。 息抜きに読書をする人もいれば研究、勉強、みたく読む人もいる。 そんな電車の中での息抜き読書から感じたこと、鎌倉謎とき散歩というタイトルの本だけあって鎌倉が日本の中で強い存在感を持っていた時代、つまり鎌倉時代の話が沢山でてくるのだが、これ、多分中学生の時に勉強したのだろうけどほぼ全てがうろ覚えで、なんだか新しく知ったことのように思えて面白い。 勿論、教科書的なことだけでなくてもっと深く突っ込んだことが書いてあるのだけれど。

いつの時代でもそうなのだろうが人間の歴史というのは謀略と争いばっかりだ。冷たく見るとどの時代もあんまりロマンチックじゃない。弟殺すなよ!みたいな。ただ、残った文化的なもの、彫刻とか、建造物とか、絵とか、そういうのはロマンというか、ただ関心を持ったり敬意を持ったりできる。そこにまつわるものは綺麗なことばっかりではないだろうけど、そうしてシラケていくと全てがシラケていく。ある意味表面的に見ていたいというのもある。 僕はクリスチャンでは無いけれど教会のステンドグラスとか綺麗だなと思う。 そういう、制作者の思想や意図とは別の所で楽しむ人がいるということが今気になる。 そして、おそらくその、ある種の適当さが無いと全く話の合わない人というのがでてくる。 つまり僕も作る人として適当に鑑賞されるということを拒んではならないということに気づく。 というか、深い所が伝わらないことに苛立つとかそういうのを止めることだな。 それで苛立つのであれば僕は苛立たれる理由が四方八方にあるだろう。 穏やかに、それでいて本気に作ることと向き合いたい。結局精神論になった。

2021年7月16日

2021年7月16日

今日はドローイング5枚。結構良いの描けたぞ。 白っちゃけた色には単純に白い絵の具を混ぜたものと水を多く含ませてそうなっているというのがある。その違いを使いこなしていきたい。 そろそろキャンバスにも描いたりしようかな。 こう、飾る絵と読む絵を、使う頭をわけて考えること、理解され辛いかもしれないけれど、すごくそうした方が良いという風に確信しているし続けていけば普通みたいになっていく。 普通っていうのは正しいとか間違っているとかではなくて続いているから普通と呼んでいるんだな。 間違いきったものも続いていれば普通と呼ばれている。絵を描くことの良いのは他人の人生を左右したりしないってことだな。自分が自分の中で完結したものを見てもらいたい。 新手の露出狂みたいな所がある。 寄せず、合わせない。徹底的に自己中心的にやる。ことが許される。 ボーダーやストライプ、水玉模様に惹かれる。模様に自分を投影する。ことは今までは無かったのだけれど今日はできた。感覚的な話でしかないけれど、そういうことが大事だ。なんだか絵を描く脳味噌になっている。

2021年7月15日

2021年7月15日

更新が空いてしまった。 今日は思いっきり絵を描ける日で、朝から描いてはいるのだが気持ちとは裏腹にあんまり上手くいかない。 こういう時に日記を書くという逃げ場があるのは良いことだ。いくつかできる行動があると煮詰まりすぎずにいられる。 絵にはピエロが現れはじめている。 こういう風になぜか人ごとみたく、受動的に生まれた図のことを信用している。自分の発想、アイディアというのとも少し違うもの。 このテーマでこれからやれってことなんですかね。

あと気になるのは水、肉体の2つ。気になるというより制作に当てはめていこうと思っている。絵の具を使って描くということは同時に水を使うことでもある。この水の分量を実験していて、水が多過ぎる状態を作って浮遊感をだそうとしている。

あぁ、ダメダメ、煮詰まっていたのだった。それを考えてどうするのだ。考えて煮詰まっているんだぞ。全然関係無いことを考えて、その後に絵を描こう。 きっと上手くいく。

全然関係無いことってなんだ。さっき塩焼きそばを食べたということも関係があるようにも思える。まぁ良いや。 後で汚れたズボンを洗おう。

2021年7月11日

2021年7月11日

うどんに卵をかけて気づいた。賞味期限が今日までなのに卵が7個も余っている。くぅぅ。こういう失敗から冷蔵庫の計画性を身につけていきたい。それらが作るものにも反映されるはずだ。 絵と関係無いことばかりやって無理矢理結びつける癖がある。 というか、どうせ関係無いこともやらなければならないのだ。 それなら糧にしたい、それがしているという思い込みであっても単純なストレスよりはいくらかマシ。使っている机がまな板置き場になったり、絵を描くフィールドになったりしている。 自然とキッチンの周りの効率化が行われるようになった。

食べ物の食感、その組み合せ。シャキシャキとぬるっとが混ざると美味しい。今日の感動は長ネギと納豆だ。 舞茸とピーマンも良かった。 味のテクスチャ。 今から絵を描く。

2021年7月10日

2021年7月10日

生活ジャンク過ぎ。寝る前にあんまり液晶画面を見すぎない方が良いので 今日からなるべく朝に書くようにしよう。 現在朝の8時。早起きしてストレッチしてから書くようにする。先ほどストレッチしました。身体を10秒ほど反ってから直立状態に戻ると気持ち良い眩暈がする。全身に血が流れていることを実感する。ストレッチ初心者だとそうなるが玄人になればそんなことないだろうな。 玄人になるとそれが自然になってしまってありがたみを感じられなくなってしまうので気をつけよう。 段々自炊も普通のことになってきている。こういうタイミングで飽きて止めないで続けていこう。 野菜炒め、ニラ、モヤシ、人参、キャベツと玉葱がカットされた状態で入っている野菜炒めにらミックスっていうやつばっかり使っているが、なるべくカットするのも自分でやりたい。 昨日ピーマンを切っている時に思ったことだ。料理をする一連の過程で触覚がなるべく刺激されるようにしたい。物に触れるというのは大切なことなのだなと思う。 色んな色があるように色んな触覚がある。 描く絵も触覚的な部分をもう少し伸ばしたい。

昨日もドローイング何枚かした。 水、流れる、泳ぐという言葉がでてくる。 泳ぐように描くのがやりたい。水彩的で、淡い複雑さが作れてきている。僕にとって複雑さは結構重要なことだ。 ただの混乱にならずに多層的であるようなものができたらな。 一重だと含めないものやことを二重三重になると含むことができる。 その理屈だと層が多ければ多いほど良いような感じがするけれど、層が増えすぎると物自体の個性が無くなり、個人的には微妙だ。 ドリンクバーのドリンクを全て混ぜたみたいな、世の中の調味料を全て混ぜた味のような感じになってしまう。 優れた配合スパイスのように複雑な調和が作れたらなと思う。

そんなわけで、泳ぐドローイングもしていきたいと思っている。 それと彫る絵。

プロセス的に言えば下書きをしない絵とする絵。 ただこの言葉だといまいちしっくりこない。泳ぐと彫る。 それを両立させ双方のことを客観的に見れるようにする。 それらをテキストで繋げ、絵に還っていくことができれば成長していくはず。 何がメインのものということでもなく循環させていきたい。 まだまだ新しい発見があるはずだ。

2021年7月7日

2021年7月7日

七夕なの気づかなかった。七夕だねって世の中はなっているのかな。テレビを10年くらいちゃんと見ていないのでわからない。スマホのニュースも見ないし。 今日の夜にYoutubeでブルーハーツを久々に聞いて、こんな詩が書けたらなぁって思った。毎日織姫と彦星に届かせるようなやつだ