2021年8月7日

なんだかんだドローイング1枚した。歯磨きみたいなテンションだな。こういうのはやる意味とか考えずやりたかったらやろう。やりたくなかったらやらない。ふと思ったのだが、何かを作る人というのはすごく感銘を受けたこと、分野とか一定の雰囲気とか、そういう何かがあって、だからやっているという風に言っていたりそう見えたりして、僕にはそういう、感銘や啓示を受けたというような体験が無いということをコンプレックスに思っていたのだが、この、啓示というものに対して肩の力を抜いてラフに構えるとあれもそうだ、これもそうだ、と、いくつもいくつもでてくる。 色んな分野に感銘を受けすぎていて、そういうのが自分には無かったと思っていた可能性がある。 草むらで煙草を吸ってぼーっとして、夕焼けを眺めていた時に受けた感銘。パーティーピーポーとして一番前の真ん中で踊り狂っていた時に受けた感銘。美術館で、好きな人と話して、絵を描いていて、ギターを弾いていて、音楽を聞いて、、 こういう幾つもの感銘が結びつかないことを、そういう何かがないという風に認識してしまっていた。 実際、天地がひっくり返るほどの体験というものをしたことがなくて、それを体感した人には敵わないとも思うのだが、少しだけそのハードルを下げれば数えきれないほどにある。そしてそれで良いのだ、天地がひっくり返ったかどうかはそれを考えるその人が決めることだ。それがどうでも良い思い出なのか示唆に富んだ思い出なのか、何も無いのか学べることがあるのか、それは自分で決められるのだ。

携帯端末の影響か、僕のようにあれもこれもと、何の専門家や職人になれずに、ならずに暮らしている人というのは結構いる。 何でも聴いたり見たりできる。そういう人は受信をする人、インプットをして評論する人が多い感じがするのだが、アウトプットしている、いこうという人はすごく少ない。勿論、鑑賞をするということを楽しみにしてそれだけをやるのでも良いのだが、なんとなくモヤモヤして、本当は作ることをしたいけれどできないというのは前述した、啓示を受けていないと思ってしまう、だからやる資格が無い、という意識に持っていかれてしまうからだ。多分。 これだ。これしかない。というわけでもないのにやっても良いんだろうかという疑問が頭から拭い去れないのである。僕はこの意識を溶かして新しい人になっていこう。胸を張って中途半端な人でいるのだ。