2021年8月2日

疲れて19時という帯に短くたすきに長しのど真ん中な時間に昼寝ならぬ夕寝をしてまった。今22時過ぎなのでこの後もう1回寝るのだが、ここ3日間日記を書けていないことに気づき、書いてから寝ようと思った。絵を描いている時は絵描きであるがその他の時間はカテゴライズするのが難しい。いつだって人間だ。 その人間として生きている時間を分割して色んなカテゴリーになっていきたい。 全てを含むというよりは多層に、1つ目の層が絵を描くことで、2つめの層が文章を書くことで、とか、そういう風にわけて暮らしたい。というか暮らしているのだが、そのことを自覚して都度確認することをする。1つ目の層が絵を描くことと書いているけれど、ここにも違和感が残る。絵を描くことというのもかなり抽象的な感じがする。 ただ、人にそれとなく何をやっているかほんのり伝える場合はこの位の抽象度の方が良いのだという感じがする。 絵描き、画家。というのは何なのだと思うがそれはその言葉を知っている人それぞれになんとなくの意味があって、それが正しい、これが間違いというのが無くそれぞれのニュアンスを尊重していくことが必要になる。それは、尊重される為には、必要になるということだ。正解という宝石があってそこの周りに土や石や泥があったりして掘り起こすために言葉を書く、つまり思考することや絵を描くこと、これは思考というより感覚的なもの(ここには思考も少しは入っているが、どちらかというと脳というより手に任せるということ)を活用していると思っていたのだが、ただこれは随分前のことだ。 今は宝石探しを諦め、土や石の魅力を見いだしたいというように思っている。宝石も見つかるかもしれないが別に正解ではないと思う。 色の綺麗さや輝きに魅惑されてそれが正解だと思うことは危険な感じもしている。 正解というものは幾つも共存できないようになっている。 だが魅力(魅力という言葉も少し違和感があるが僕の語彙的にはこの言葉が一番しっくりくる)は幾つも共存できるようになっている。僕はそこに目を向けていきたい。そうするとかなり自由な気分になるし、実際考えをもっと飛躍させたり曲げたりできる。正解に基づく考えが鉄だとすると魅力に基づく考えは溶けた鉄であり、ここから成形して色んなものにできるというイメージだ。固体ではなく液体的な思考なのだ。用途も定まっていない。使い方次第で色んなものになっていく。

そう考えると定められているかに見えたルールが溶けていき、幼児の目で世界を見ることができるようになるのではないか。

ただ、バランスは必要だ。やや、正直必要無いと思う時もあるが(多分自分が苦手だからだ)ある程度自分の中だけでなくて誰の目にも映るものになったりする時にトロトロに溶けきっているとわけのわからない人になってしまう。 わけのわからない人に見えるというべきか。 ここで、自分とは逆の溶けていない鉄、いわゆる鉄の角度から考えてみると面白い。 僕が想像しているのは四角柱の鉄の棒なのだが、ここには寸法がある。縦、横、奥行き。 溶けた鉄には寸法が無い。 寸法という言葉がでてきた。寸法という言葉の裏にある考えの根っこには正解がある。この考えがないといわゆる建築物や、なんというか、具体物、プロダクトというものが成り立たなくなってくる。この観点は何かを作ったり暮らしたりする上で必要なことではある。ただ、これだけの考えでいこうとするとつまらなくなったり無理がでてきたりする。そことどう付き合うか。そこも面白く感じられるようになれば良いなと思いはじめている。

昨日描いて良いと思っていたドローイングが机の脇にあるのだが今見ると微妙だ。 こういうのは良くあるな。タイムリーな思考というのは結構当てずっぽうだったりする。というかそのくらいでないと行動できないのだが。 その時にしかない感覚というのを信じることが大事なのだが、こう、自分の思い入れとかそういうものを抜きにして自分の為したことを他人の目で見る冷静な自分がいるのも有り難い。 そういう、エモーショナルな自分とよそよそしい他人を行ったり来たりすることで成長するのではないか。