2021年8月12日

何かをイメージする時にそれをありありと目の前にあるかのようにできるわけじゃなくいつもそこには不透明な霧がかかっている。その霧を打ち消せる気持ちがある時にだけ生まれるものがあると思う。 それこそが持たない人が持っているものであって、明確なイメージじゃなくてえぐり出したその人だけが持っているイメージ。そのことが僕を興奮させる。 その内容が賢くても稚拙でも何でも良い。 賢さに頼ることは人間が考えて、その通りになるっていうことを信用しすぎた考えだ。明確なイメージはそのイメージが外れるとボロボロと崩れてしまう。えぐり出したイメージは外れた時のやり方をいつでも知ってる。知らなくてもわかろうとする。本当はやろうとすることに集中するよりもなぜやろうとするのかという位の抽象度に考えがいて、やろうとしてやることは自動でできていくような感じでいた方が良い。 やろうとしたことに集中するとそれに対する意見や批判がどうしても気になる。 やるけれど本当はそんなことどうでも良いのだという意識でいたらどうだろう。 そんなことにはならず、むしろ寛容になれるはずだ。推測するが推測したことは常に外れている。だからといって推測するという行為を馬鹿にせず、かといって全面的に信用もせず、コード進行だけ決めている人でいれたらビジョンを持った上で臨機応変に状況に対応できるベースラインを弾けるジャズマンになれるのではないか。いや、なれる。 僕に必要なのは仮説ではあるけれどもそれを当面はしっかり信用するという行為、もしくは言葉だ。 断定するが変わるかもしれない。 それは、言葉の上では、良くわからないがそう思うかもしれないという抽象的な保険をかけること。それは正しいが勢いが無い。 人を突き動かすエネルギーは冷静さを無視した倒錯したエネルギーだ。そこには罠がある。それを頭の片隅で自覚しつつ情熱に突き動かされる瞬間を作れれば良いと思う。 勢いが人を傷つけたりする方向に向かっていなければ、その勢いを持って良いのだ。大人になるとそれはバランスの欠いた、バカバカしい行為と見なされがちだが、そんなことはない。なぜ、人生経験の少ないティーンエイジャーが色んな経験を積んだ大人という大きい人より心を揺らしたり響かせたりするのか。 そこにはちゃんと、そう思ったからにはそう信じるんだという力がある。もしかしたら違う意見があってどうこうという忖度もなく、ただただ真っすぐにそれを信じる力がある。 その力は、センスが良いとか、そういう言葉に回収されないままに大人が冷静に考えても理解できない所にふわふわ浮かんでいる。それは諸刃の剣でもある。信じきることは マイナスにいけばとことんマイナスまでいく。プラスにいけばとことんプラスにいく。 僕は十代の時にそうなれなかった。今の目で見て、僕はどうだろうか。そうなれなかったならなってみる必要があるんじゃないだろうか。そうじゃないとただ僕はその目で見たことが無い人ということになる。

何かを作るという行為は、描くでも踊るでも歌うでも、自分にしかわからない倒錯した情熱を持ちつつシラケた他人の目で自分を見る行為である。

そこには単なるエゴでもなく、自分を捨てて奉仕するでもなく、自分も自分以外も気持ちよく、風通しが良い世界が広がっている。