2021年7月1日

2021年の後半の初日に気づいたことは、キュウリとスイカの味が似ているということ。 これは前に言っている人がいて、その時は僕は共感できなかったのだけれど今日ついにその時がきた。 後からわかることも沢山あるから違う考えも否定しないで保留しておこう。否定することで何かが良い方に進むのであれば別だけど。 結構、小さい頃に読んだマザーテレサの伝記スタイルでいきたい。 戦争反対デモは参加しないけど平和運動デモは参加するというやつだ。 絵本屋さんと話したことでずっと覚えていることがあって、それは、人間はそのままでいると争う方向に向かいやすいという話を聞かせてもらったこと。 わかりやすい物を好むとも。例えば、戦時中、治安が悪い という状態はイメージしやすい。 逆に、平和、治安が良いというのはどういう状態なのか?? 目立った犯罪の件数の数字が減った代わりに監視カメラがそこら中にあるとする。 それは、平和、治安が良くなったということなのか? それとも、良くなった風なのか? それは分かり辛い。 平和の形は人それぞれ違くて、平和の対義語を戦争とするとして、戦争の形はほぼ一つ。 僕がそんな何年か前の話から思うこととしては、人それぞれ違うということを受け入れられないと平和から離脱していってしまう。 僕はそうならずに自分の世界を育てて表現し、僕の思う適当な平和な小宇宙みたいなものを作りたいと思っている。 ここで適当と言うのは、もっと厳密な考えだってあるということはわかるからだ。ただ僕の考えはそこまで及んでいない。 それでも今何かしなくちゃと思う時に適当っていう言葉を当てはめるのがしっくりくる。

今日は、忌野清志郎とウルフルズがフューチャリングしたデイドリームビリーバーを聞いてウるっときてしまった。 こういうのは言葉の力が大きいなと思う。 あんまり、日本語以外の言語の曲でこういう感情になることは無いかも。誰かといて、リクオ、何か曲を流してと言われる時に流す曲は日本語の曲じゃないんだけどね。 それも嘘でこの曲が良いって思っているわけではないのが不思議。 一人でイヤホンで聞く時の曲とそういうのをわけて考えているのかな。

あと、デイドリームビリーバーの歌詞の中の言葉を若干一目を気にしながらマスクの下で口ずさんで涙ぐんでいて、そんな言葉の意味の力に圧倒されておきながら、こうして文章を書いている時なんかは、ただ淡々として、涙ぐむなんて微塵もないの不思議。 涙ぐめたら本当の本当に良い文章が書けたか、センチメンタルすぎのどっちかだ。今も感情の薄い冷静な男としてキーボードを叩いている。不思議だ。 もしかすると、これが話し言葉と書き言葉が生まれた遠因になっているのかもしれないという推測を立てる。 叙事的な書き言葉と、叙情的な歌い言葉。 その中でも叙事から離れようとした書き言葉が詩なのかもしれない。 作文と音楽の間に言葉を浮かばせたもの。

いきなり現実に戻ると、それをやるのにかかる金額は0円。言葉が綿密に計画し業務を遂行する反面、言葉が人をぽかぽかさせたり喜ばせたり泣かせたりする。明日もきっとそう。