2021年6月26日

いつも机の上で書いているのだが今日は布団の上。座っているのと転がっているので何か変わるかな。今日は電車の中でアラン・ヴェガというミュージシャンの人を知って、Youtubeで聞いた。 Suicideというグループでマーティン・レヴという人と一緒に活動していたらしい。 アラン・ヴェガがボーカルでマーティン・レヴがシンセサイザーで活動していたユニット? これがすごく響いた。 いつもは電車の中で本を読むようにして、気が散ってしまうので音楽は聞かないようにしていたのだが、今日は本を忘れてしまった。空っぽのリュックサックを背負っていたことになる。 毛布とライナスの関係みたくなんか背負ってないと落ち着かないのかな。 僕は結構、ポストパンクの雰囲気が好きだということに気づく。テレヴィジョンズっていうバンドも好きで、その空気感とSuicideは似ている感じがした、けれどSuicideはボーカルとシンセサイザーしかいないのでバンド的な空気感とはまた違った不思議な雰囲気を感じる。これに僕は浮遊感という名前をつけたい。世間的なジャンルはわからないけれど、僕がこの種の浮遊感でまとめるとすると昨日か一昨日書いた、最初期のピンク・フロイド、ドアーズ、テレヴィジョンズ、スーサイドは一つにまとめられるような感じがする。こうやって、「浮遊感」とか、「怒り」とか、買ってにジャンルを作って頭の中でプレイリストみたいなものを作って異なるものをまとめるの好きだ。これは別に音楽に限らず。年代とか世間的にはこう言われているっていうのが違くても共通点を見いだすことができる。高校生の時はガンズ&ローゼズというバンドとニルヴァーナが好きだったけれど、この2つのグループは仲が悪いということで有名だった。が、僕が生まれた時代は全然リアルタイムじゃないのである。そうすると、当時がどうという所ともまた離れた所から考えられる。この2つのことを僕は「怒り」というジャンルで括っていた。そのことを思い出す。 どっちも怒り狂ってる感じしたもの。

今日聞いたSuicideのアラン・ヴェガさんは39歳の時にファーストアルバムをだしたらしく、その遅咲き感も気になる。 僕もあんまりうまくいっていない時間が長かったのでこういう人を見て諦めずにひたむきにやろうと思っている。 諦めないというかこうでしかあれないみたいな感じなんだけれど。

何年か前に友人に誘われて渋谷のブエノスに行った。あまり記憶が定かでないけれど確かブエノスだったはずだ。海外から名前を失念してしまった人が来ていて僕は知らなかったけれど誘われたので行ったのだが、こういう出会い方っていうのはすごく面白いと思ったのは、というか僕は結構そういうことが多いのだが、先入観無く見れる感じだったり、当たり前だけれど僕が知っている人は僕は知っているし、僕が知らない人は僕は知らない。 そう考えると、自分の興味外のこと、だけどこれから興味を持つかもしれないことと出会う、知るということは他人の存在なくしてあり得ないのではないかとも思う。自分以外の人に感謝!

名前を失念している癖にライブの感じはすごく覚えていて、色んなデジタルな楽器を机の上に置いて演奏していて、そこにストロボや虹色の照明が当たって、その人が主役なのだけれど色んな人が脇役として関わっている大きいイベント会場が故の神々しい感じがした。 そんな場面を見ている時に友人が隣で、この人は元々保育士か何かをやっていたらしいみたいなことをぼそっと言って、ステージの上で光が当たっている人とそのギャップが全然わからなくてほぇーとか言ってた。 そういう風に人間が多面体であることが気になる。 一つの面しかない人はいないんだろう。 一つの面だけが見えるということは意識してそういう風に見せているというだけで色んなブルースを抱えて人というのは生きてきたしこれからも生きていくのだ。

汗で身体がべたべただ。日記を書き終えたら風呂に入りたい。僕にとっては風呂に入るというのはシャワーを浴びるということなのだが。洗濯は風呂場で桶に水を貯めて洗剤を入れて溶かし、今日着た洋服や下着をその中に入れて手で洗うようにしている。 あんまり洗濯機というのを使ったことがないのだけれどこれで良いのだろうか。そんな昭和な洗濯をしている最中にアイディアが浮かんだりするので絵を描くとは関係無く手を動かすことは好きだ。最近の自炊もそういう部分があるかもしれない。 なんでも、例えば運転とか、手を動かさずにできるというのが良いという風になっていきそうだけれど手を動かすっていうのは結構贅沢で良いことだと思うんだよな。あらゆることが全自動になったら手を動かしすぎて苛々するかもしれない。僕はなんでも手作りだった手工業的な時代を尊敬していて、絵を描きたいというのは手工業的表現だから好きというのがあるかもしれない。 何か実用品というわけではないけれど色を塗ったりせんを描いたりするのは手を動かすということへの単純な喜びがある。ボタンを押すとかではなく手が有機的に動いて輪郭を作っていく。 なんだか時代遅れな感もあるが、ただ、もうなんて検索したら良いかもわからない朧げに覚えているテキストがあって、それは、時代が発展すると科学が発展する。そして人が表現するものも科学と同時に発展する。が、しかし、そこには発展した技術を使うというのも一つのあり方だが、これで良いのかという考え方もでてくる。 その、これで良いのかというのも科学が発展したから発展した意識だということもできる。 というやつなのだが、今このうろ覚えのモヤモヤしたテキストが気になる。 スターウォーズみたいな世界になったとして、皆が映画中にでてくる飛行機みたいなのに乗っているわけじゃない。むしろ回帰運動のような感じで今よりハードに自然志向の農家の人とかだってそこには同時に存在するはずだ。そう考えると未来というのはレトロな部分もちゃんと存在している世界になると思うのだ。なぜって皆同じ考え方になることなんてないから。 と、なんかこういう所も描いたモチーフとしてでてきていることに気づく。 文章を書くと考えさせられることばっかりだ。

今日、岩絵の具という絵の具を持っていることに気づいた。 なんかあれもこれもと余計な画材ばっかり買う癖があったのが今になって活きてきているかもしれない。ふいにあの、薄い色で微妙にムラがでる深い質感のことを思い出している。ちょっと試してみるのも良いかもしれない。 あの色なら小さい宝物感を描きだせそうだ。 わりかし手軽な画材が自分に合っているという風に思っていたのでライブペイント用に18色カラー筆ペンを使っていたのだけれどちょっと色が強いような感じがした。18個の原色に近い色という色。 で、ライブペイントとか、ライブ感があるものはこれが良いのだと思う。ある程度の遠くから見たインパクトが欲しい時に岩絵の具のような淡い色合いは空間に負けてしまうような感じがあったので。ただ、家で小さい机で小さいサイズの絵となるとまたちょっと変わってくる。絵は絵だから一緒という思考の解像度が少し変わってきている感じがする。ちゃんとズームしたりひいたり、周波数を合わせようとするようになった。 昔から気合いに頼り過ぎなので計画やサイズや状況のチューニングを合わせていきたい。決めたことを淡々とやるという意識があった方が気持ちよくやれるような気がしている。