2021年6月24日

数字に慣れる為に一日一つ、アハ数字体験をしようと思っている。今日のアハ数字は、「世界にいくつ言語があるか」  世界には6900ぐらいの言語があると言われている。

絵は、A5サイズ(148mm×210mm)が自分に合うことが判明。 ミニマルな手触りから離れない中で、描き方も自由度が効く。4コマ、86mm×53mmでやっていたのだけれど、描き込もうとするとさすがに小さ過ぎだそのサイズ。 A5サイズのイラストと絵画の間の小さい宝物のようなものを作りたい。で、4コマじゃなくて一つの本で一つのストーリーにしよう。 何も4コマにこだわる必要もないんじゃないか。そうすると、ストーリーを考えなくちゃいけないな。 と、これは、簡単だと思ってしまった。例えば今、僕が座っている折りたたみ式の椅子は気に入ってるものじゃない。本当はもっと自分に合った椅子を見つけたいのだが、なんか面倒くさいと思ってしまう。無精野郎なのだ。これからは椅子を探そう。そしてその椅子がストーリーに登場するのだ。そうすると、椅子を探すという行為が自分に合った椅子を見つけるということに付け加えて作るものに反映されるということになる。 それはまるで植物が光合成をして酸素を作ると同時に目に映る景色になっているように、自分がなるということだ。制作手法としてはラップに近いかもしれない。 単純に、違う椅子が欲しい、ただ作ることとは特に関係無いと思ってしまうから面倒臭くなるのだ。別に自分が座る椅子なんかなんでもいっかとなってしまう。 ここに作るものの為にという観点を持たせることでグッと成長するような気がする。 それじゃ椅子のストーリーを作るのかいって、そういうわけではなく、小道具として出演してもらうのである。 俳優椅子。 ストーリーという言葉から思い出すのは1971年のシド・バレットさんのインタビューである。僕はこの人が作るものが好きだ。ピンク・フロイドというバンドの初期のリーダーで、一枚目のアルバムにだけ参加しているのだが、この人のヒリヒリするポップセンスがめちゃくちゃ好きだ。ヒリヒリするポップセンスとなると思い浮かぶのがカート・コバーンさんだが、シド・バレットさんはまたちょっと違う。失礼を承知ながら言葉にしてみよう。カート・コバーンさんは渇いたポップという感じがするが、シド・バレットさんは湿った明るさをポップにまとめたという感じがする。とにかく二人ともリスペクト!

その、ヒリヒリするポップセンスの線でいくとドアーズのジム・モリスンさんも好きだ。 叫ばない狂気という感じがするね。確か元々映画を学んでいた人のはずだ。そういう風に、映画を学んだが音楽を作った人とか、学んだものを移行させるセンスに興味がある。 シド・バレットさんは絵を学んで音楽を作った。 ピンク・フロイドを辞めてからは絵を描いていたらしい。

まずい、インタビューの話だった。シド・バレットにインタビューをしたインタビュアーが

君は曲のなかでストーリーを語るってことより、むしろ、あるムードを作ろうとしてるんじゃない? 

と聞き、まさにその通りだとシド・バレットが答える場面がある。僕はこの考え方を参考にしたいと思っている。本に閉じ込められたストーリーを作るというよりムードを作るのだ。うむ、やりたいことが明確になってきている。 やはりテキストを書きまくるのが大事だ。 量は質を超える。 最近は文字数チェッカーというツールで日記の総文字数を測りはじめた。 いやいや、文字数より内容だろと思っていたがそんなこともないかもしれない。 なぜなら、意味を伴う文字を書いているのであれば内容が重複するわけにもいかないのである。 そうすると何が起きるか。 思考を追求するか違うことを思考するかという二択が現れ、どちらかの選択を迫られるのだ。 つまり僕にとって考えるということは言語化することなしにあり得ないのかもしれないと思ってきた。日記以外にもテキストは書き、僕の目標は一日四千字である。それを続けると一年で百四十六万字。 この百四十六万字の中にしょうもないことや個人的大発見が含まれているだろう。

作りたい絵本というか、ムード本のテーマが決まってきている。 安易を承知で書くが、理想の世界、ユートピアを描くのだ。 そしてそれを正解に頼らず、魅力に頼って表現をする。そのムードを閉じ込めた本を作るのだ。 あと、ハードカバー製本じゃなくてZINEのような形式にして作ろう。結構、ハードカバーで一冊だけ渾身のものを作った自分のことを想像する時に微妙な気持ちになるからだ。資金面での敷居を下げて渾身のものを沢山作ろう。ポジティブマシンガンスタイルで制作するのだ。 結構、一つのものに色んなことがかかっているという状態のことが苦手だと思う。 多作になることはそれを分散させるということにもなる。そうすると魅力も分散されてしまうのではと危惧する感情も僕の中にはあったが、実はそんなことは無いと確信している。 時間をかければ良いものができるというわけでは無いのだ。今、むしろ素早く捕まえたい。目指すのは建築家でなくてスナップ写真家だ。俳句を詠み、サックスを鳴らす、ギターの弦のように自分の絵の手触りを作り、それを覚える。世界中どこに行ったってその手触りを覚えている限りなんとかなっちゃうとか、疑いの時代のロマンという感じがある。 2012年に僕は中国の広州で飛行機に乗り遅れ、何をどう説明してもこいつは何を言ってるんだとなってしまったことがある。わからない中国語が音楽のように聞こえた。僕の日本語やブロークンイングリッシュも受付のお姉さんにはそう聞こえていたであろう。その時僕が思いついたのは絵を描くことであった。飛行機に乗り遅れた自分の絵を描いたのだ。そうすると一瞬で伝わり何が何だかわからないが次に来る飛行機に乗れることになったのだ。どういう仕組みだったのかはわからないが色や形が国際語であるということを認識した瞬間だった。そういう記憶の断片的なものがコラージュされて自分の意思や思考というものが作られている気がする。これはおそらく誰でもそうなのであろう。つまり人間はドラゴンボールでいうセルなのである。 細胞。 記憶のセルといった方が良いだろうか。 そういえばエクセルというツールの最小単位を表現する言葉もセルだ。

今日は久しぶりにフンデルトヴァッサーの画集を見た。これは画集というより絵とフンデルトヴァッサーの哲学が掲載された本なのだが、体裁としては画集なのだろう。 この人のことが定期的に気になる。この人が世の中でどういう位置づけがされているのかはよくわからないのだが、一応wikipediaによるとオーストリアの画家、芸術家、建築家なのだという。この人の思想に興味がある。ひたすら「直線」というものを敵視しているのだ。 直線にまつわる言葉がいくつかあって、例えば、「直線は人間性を崩壊させる」だったり、「直線に神は宿らず」だったり、自然を愛した人であり、自然界に直線というものが存在しないということを基にして、直線というものがそもそも不自然なんだよということを言っていた人なのだ。 そのように考えると、時代が経つにつれフンデルトヴァッサーが言っていた不自然な世界に近づいている気がしなくもない。 日本でもおそらく昔の木造住宅の方が今のコンクリートでできた建物より曲線としての要素が多いと思うし、、そしてその眼で絵を見てみる。と、彼が描く直線はあくまで直線っぽい感じの線で、真っすぐ立っている木の輪郭のような線である。日々研究あるのみですな