2021年6月22日

本を作り、世界中に郵送するのだと思ってからというもの、何を作ろうということへの思考が変わってきている。 世界中に郵送するのだというのは何だか大げさな響きがあるのだが、少部数ずつ色んな国に自分の本があるような状態にしたい。つまり世界中に郵送するということなのだ。 予算の関係上、本ではなくてZINEのような感じになってしまうかもしれないが、重要なのは仕上げることだ。そうなった場合はその紙や雰囲気ならではでできるような感じでやりたい。状況主義というやつだ。

作ろうということへの思考が変わってきているというのは、結構アツい。何って、あまり意識してこなかったけれど、東洋のアジアの日本の人になるってことだからね。つい油断すると神奈川の人とか東京の人になる。 そんなわけで、「日本の笑い」という江戸時代の俳画や戯画の載っている本を見て模写をした。こういう空気を吸収したいと思っている。というか、そもそもこういうテイストの方が自分のやろうとしていることには近い気がしている。 もっと洗練させる為に近いものを感じる死んでしまった大先輩から学ぶという感じ。 ちょっと遠回りしたけれど、アジアの視覚表現を学びたいと思った。 今までは西洋の美術に目が向かっていたので、これからはそこを深く掘るのでなくエリアをずらしていく感じで考えよう。 浅く広く、軽やかに。 そして自分のスタイルを作ろう。いや、自分の、「これ」のスタイルなのだ。 そうやって幾つかのセクションを作ることで思い切れるし僕自身安定するような感じもある。そんな時には車を思い浮かべる。四輪全てが回る時に前に進んでいくというイメージだ。テキストを書くことは左前のタイヤみたいな感じ。これだけだと車がぐるぐる回転してダメだし無くてもダメ。 一つ一つのタイヤ自身に特有の役割を持たせてそれに愛を持って育て、僕はアクセルを踏むのだ。タイヤであり可愛い植物のような感じ。花を咲かせて走ろう。

昨日、模写の面白さに気づけたのは良い発見であった。やはり読線、読色というような感じがある。こうやってやっているのかということを初めて認識できる。見るだけだと認識したようでいて実は良くわかっていない。最近は毎日簡単な料理もやっていて、まぁ、野菜炒めとかなのだが,,, これもチェーン外食マンだった僕にとっては色々気づかされることがある。 バイクに乗りたてのような気持ちだ。隣の駅に行くのに電車で移動するということしかできなかったのが、家から隣の駅まで自分で道を選んで行けるという喜びに似た感覚。 線路を無視し遠回りもできれば近道を探したり、途中で駅と駅の間で休憩したりできる。 醤油をどのくらい入れるか等、自分で調整できる。 走る速度を、どこで曲がるかを。なんなら目的地すら変えて途中で予定に無かった卵を入れたりできてしまう。ある種の自由を得たと思っている。 こんなに身近なことに気づかなかったことに反省。  灯台下暗し!

今日久々に見た江戸時代の絵もそうだ。どうしても、ピカソ、とか、そういう人に目が向かってしまっていた。なんだか僕は、意外とずれることを恐れる所がある。なぜ僕がピカソの画集を持っているかというと、勿論絵が良いと思うのもあるが、無難な感じがするから というのが考えの半分くらいを占めているように思った。ただこれからは気の向く方に向かっていこう。ある程度の理性を使ってまとめるのも忘れずに。

そんな流れから、なぜ自分が職人的な思考から自分を遠ざけようとしていたのかがわかった。思考がガラパゴス化した状態で固定されてしまい、そこから変化できないことや実はそうでは無かったということに気づくのが恐ろしいのだ。 そしてあっちにふらふら、こっちにふらふら。 ただ、実は格好良い職人はむしろその逆なのではと思ってきている。そこに向かうということはそれだけを知るということでは無いのだ。 こないだYoutubeで見た三代目彫よしさんという和彫りの彫師さんの動画内では、ポリネシアンタトゥーの話も普通にでてくる。それを学びそれに向かう過程で、他の文化と比較したりするということがでてきて、むしろ極めることで視野が広くなっているのではないかと思った。一芸は百芸に通ずというのはそういう意味なのだろうか。

なんだか謎にほっとしている。何かを作り続け、歳を取り、あぁ、こういうことしかわからん、俺、、 という風になるのであればそれは作ることが違ったとかやっていることが違ったということではなく向き合う方法のミスなのである。そしてミスっていたなら修正すれば良いのだ。

なんだか時間が動きだしそうな感じがする。