2021年6月20日

この所テキスト書きたい人になっている。机上の空論であるがゆえに色々なことを試せるのが気にいっている。本来何かを考えるということは自由なのだということを思い起こさせてくれるのがこういう時間である。苦悩やモヤモヤを見ないふりをすると短期的に自分の思考を誤魔化すことができるが、ふとした拍子にそのツケがまわってくる。 人が何かを生むのは苦しみから始まっているかもしれない。 例えば食材、食べられる物というのはなんでこんなに沢山あるのだろう。人間ほど雑食の動物は他にいない。 何から何まで食べるのな。 動物の根本的な恐怖は飢えること。それは概念としてではなく実際に飢えて死ぬということだ。この恐怖に対する苦悩を克服する為に色んな動物が独自の食事法、食べられる草を探して仲間内にシェアをしたり狩りをするという方法を学んだのだと思う。 動物、気になる。例えば、世界初の猪はどういう経緯で誕生するのか? およそ存在するものすべてはきっかけがあったはずである。紀元前の、今よりずっといろんなことの定義が定まっていない暮らしはどんななのだ。氷河期には人がマンモスを狩っていた時代もあったのだ。 そんな中で暮らしていたら僕は何を考えるのだろう。 もうわけがわからなくなって気が狂ったりしてしまうのだろうか。 意外と、まぁこんなもんだみたいな気持ちで生活を営んでいたのだろうか。 紀元前が気になると紀元後が気になる。今が紀元後ということになるのだが、なにかきっかけがあって紀元後後というのが生まれたとする。そうするとその時代の人達にとっては今の僕は紀元前の人ということになる。 そうすると、その時代の教科書的なものに僕もデータの超ミクロな一部分として掲載され、すげーなこいつら、どうやって生活してるんだって感じる暮らしをしている人達がいることになる。 今生きている時代の先というものがあるのが全然想像つかない。前の時代は文献によって残されているということ、ありがたく思う。 そういう、知るということに対しての敬意を持つようになってきた。カントは、知る勇気を持て と言った こんなこと書いて、カントという人がなんなのか良くわかっていないのは恥ずかしい所ではあるが笑 響く言葉である。こう書いてなんだか今まで思っていたことを思い返したりしているのだが、紀元前から今まで様々な哲学者が身を削って思考し、なんなら発狂したりしながら生み出したものがあって、それが哲学だとすると、現代向けに訳されているものというのはどうしてもライトな感じ、いわゆる自己啓発としての雰囲気に回収されているような感じがある気がする。それは読む人の多くがそれを求めるからそうなるのだろうし、そんなに重くぶちかまされてもどうやって生きていけば良いのかわからなくなる人が続出するのも社会としてはどうなってしまうのかというのもあるので、まぁ、それは仕方が無いことのような気がするが、、ただ、現代に訳されていることはあくまで表層的な部分で、実際はもっと重いことなのだということを感じておこう。 その中でも知る勇気を持てという言葉は結構、抜きん出た禅問答のようなニュアンスを僕は感じ取っている。 というか、カントは日本語でそう書いたわけではないので訳した人もすごい。元々は「Enlightenment Now」という言葉らしい。 行動する勇気を持て だったり、実行する勇気を持てという人は沢山いる。 ただ、知るということは勇気がいることなのか? 知ることが? 今ほど知るということが簡単に思われ、知っている、情報があるというようなことが価値を失っている時代も無いと思う。そうなると、今では通用する考え方では無くなったという風に思うこともできるかもしれないが、なんだか、今こそという感じが僕はする。実は知るのは難しい。僕は知ろうとしないことや時がある。結構良くある。 しかし知ろうとすれば知ることができる。だけどやらない。それは何かという風に考えると、怠慢という言葉を当てはめれば客観的にはしっくりくる漢字だが、そうとも言いきれない感じがあるかんじ。

そのことを突き詰めて考えると、今の自分にとってそれを知ることが都合が悪いからだという結論に辿り着く。 ただ、それはあくまで今の自分にとってであって、時間を長く見れば知っている方が良いということも往々にしてある。 あの時知っておけばよかったというやつだ。誰しも色んなこんがらがった心理を内側に秘めて暮らしていて、そして、その状態から何をするか、起きてから寝るまでの一日という単位をどのように過ごすのかというのが生活と呼ぶことができる。そう、何をするかということに意識が向いているが、何を知ろうとするかというのはあまり意識が向かない。なぜなら知ること自体は簡単だからだ、ただできない、それをすることは自分の嫌な部分を見つめることになるからだ、悲しみや悔いを生むかもしれないということを恐れているのだ。 これからはその少しくらいの恐怖には立ち向かっていこう