2021年6月16日

文章書くのが調子良いのでこのまま日課にしていこう。何か考えてから書くというより書きはじめると考えていくという感じ。自分で書いているのに、おぉ、それは面白いなと思ったりする。アウトプットのはずがインプットの様な感じすらある。なんじゃそりゃ。 言葉を使う場面としては、話す・聞くという場面と、書く・読む という場面があると思う。話す・聞くというのは音楽に似ていて、書く・読むというのは本に似ている。

そうすると言葉というのを音楽っぽく扱っている時と本っぽく扱っている時があることになる。 だからなんだという感じだが、ここから広がることが沢山あることだけ気づいていてモヤモヤする。 表現オタクなのでこういうことを考えるのが好きだ。 書く中でもビジネスメールや論文は論理が第一だが詩や俳句などはそういうわけでもなく、音楽的な要素が強い感じがする。 それぞれの形式が持つ特性を発見していきたい。

絵のことを考えよう。ここも分割できる、というか僕の場合はしなければならないということに気づく。絵を描く。絵を見る。というのはかなり抽象的で色んなものを含んでいる。このことを拡大してどの辺りの周波数が自分のやろうとしていることに合うのかというのを考えていきたい。今まではざっくりで括りすぎな所があった。それもやってみなければわからないことだったので経験に感謝をしつつそれを糧に成長していきたい。 と、そういえば今日は初めてpockeというギャラリーで個展をさせてもらった日から5周年の日なんじゃ?と思ってフライヤーを見るとまさしく。2016年の6月17日までだ。なんか色々あったなぁ。 なんだか全然成長しない人だがこの時のことを考えると確かに成長を感じる。 技術というよりも意識が変化しているような感じがする。 大きく変わったのはモヤモヤとだけれど絵には2つあるということに気づけたことだ。これは何か区分する言葉がどこかにあったりするのだろうか。前にでる絵と引っ込む絵があるということ。 擬音語で言うとドカン!って絵とぽつんって絵。少し雑な感じがあるが上手い言葉が見当たらない。 それはどっちが良いとか悪いとかでは無く、各々のあり方に対して合う合わないがある。 僕の失敗としては完全にぽつん なのにドカン!のつもりでやっていたということ。 ここ、作るものと人柄を同一視していると起きることのような気がする。 今は作るということを自分や社会の一部分を投影することという風に考えているのでその辺のTPOは間違えずにできそうだ。ぽつんとじんわり見る絵の展示なのにベロベロで大きい音でパンクを流していて苦笑いで3秒くらいで帰ってしまった人もいた。 例えるなら弾き語りでギター叩き折ってるみたいなわけわからない人になってた。いや、それで良いのだ。人としては。 ぽつんの時にドカン!の気持ちがあってドカン!の時にもぽつんの気持ちはきっとある。 ただ、これはこれ、作ったものは作ったものという風に一つクッションを挟んで、それに合うか合わないかという基準をすっ飛ばして考えてしまうと直に自分個人だけとしての話になってしまう。 それは結構キツいことだ。作ったものできたものというのと自分自身の価値というものと同一視し過ぎないこと、僕にとってはそれが重要で、それを念頭に置いておかないとすぐにメンタルがやられてしまう。 結構、その辺の心持ちを発見してきている。

それじゃどうするか。ミニマルな手触りをもったぽつんの美しさを持ったものを作らねば。 あと、やはり最終的には僕は作家か、表現にまつわることを生業として生活せねばと思っている。 それは、憧れとか希望というよりはなんとなく小さい使命のように感じるのだ。 生業とするというのは(資本主義社会が変わらなければ)これでお金を稼いで生活するということになるのだが、こういう時いつも思い出すのは、どちらかというとそれに馴染めない、馴染めなかった格好良い人たち。なんなら僕も全然馴染めてはいない。格好良くないけど。 ただ、そうも言ってられないというわけでもなく、そうだというわけでもなく、残しておきたい部分を残したまま、生活できるグラデーションの部分を探すことはできるのではないかと思ってきている。どっちみち時代は変わるのだ。 何があるとも何が無いとも言い切れない。手探りで計画を立てる。