2021年6月13日

自分で自分が食べるものを作ったり、自分で自分が見たいものを作ったり、誰に見せるわけでもないものを作ったり、自己完結的できることは思う存分実験精神を反映させられるのが良い所だ。 規模は小さくともなんでもできる自由な精神がここにはある。 不味くても、失敗しても良いというか、誰にも失敗していることに気づかれもしない。その気楽さと身軽さに身を任せて積み上げることを躱すようにしていたのだが、もうちょっとゆっくりじっくり愛でて取り組むという意識を持つようにする。 いくつかの領域にわけてそれぞれを伸ばしていくという、畑に色々な作物を植えている人というイメージでいよう。 ほうれん草が生えてきたり、トマトが生えてきたり、自分が植えたわけではない雑草も自然と生えている。

これを何を植えるのか、あれなのかこれなのか、それをなんで植えるのか、そんなに確たる理由も見つからない気がする、いやいつか見つかるのか、それとも見つからないまま終わるのか、とにかく植えなくちゃ、あれなのかこれなのか とずっと続き、人生は一度きりだと思ったりしはじめてどんどん身動きが取れなくなってくる。 これが畑という喩えだと、そんな人いないだろ と思うが、 違うことになると結構いて、なんなら僕自身がモロにそのタイプだ。 気負いはじめるとハードルが上がっていく。 ハードルを越える為にまた気負っていくという時間に飲み込まれないようにしよう。 それが乗り越えるということなのだと言う人もあるかもしれないが僕の場合は違うということ。 それは難しくも面白いことなのだが、人一人一人によって同じ言葉の意味、もしくはまつわる印象が、あるいはなんとなくフッと浮かぶことが全然違うのだ。誰しもその人の言葉の世界を生きている。 だからこそ面白いこともあるしだからこそ喧嘩になったりすることもあって、面白いという所にいたいなと思っている。 日本語だからといって同じ言葉を使っているという風に思わないようにして、言葉をその人が作った作品というような感じで考える。 仮にそう見えなくても人一人一人がその人なりの方言を持っていて、僕はそれを書きまくっていきたい。標準語から標準に思考していると思わないということ、明らかな誤用は問題だが正用にも頼らず綺麗な訛りを書きたい。そうして考えを研ぎすませていくということ。

自由に種を沢山蒔いたので、ここからは育て方を考えて実践していこう。芽がでなかったものに未練もあるがそれは仕方ない。それよりはちょっと育った芽を見て嬉しさを持って暮らしていく。

そうだ、今日は絵力について書こうと思っていたのだった。 もっと文章が上手い人はこういう接続をビシッとできていて、そういうのもできるようになりたい。 それは見せる、魅せる、伝達の為というのともまた違う、混乱に良い具合の秩序を持たせられたということの喜びみたいなもの。 僕が好きな絵はそういう喜びを持っていてそこでは複雑さと単純さが調和を持って一緒に存在できている。その力のことが気になる。

ただ、昨日考えていた絵力というのはこれとは違くて、もう少し具体的なことである。珍しくすごく具体的なことだ。 それは、 「その人が描いて良いか悪いか検討しなければいけない対象」 というのを描くのにあたって、それを良しとする基準は何かということである。これは僕が迷って対象から離れた抽象を描いたりする理由の一つにもなっている。絵の歴史はその国の思想や宗教や文化的背景と密接に結びついていて、そんなことは関係無い とまでぶっちぎれる人では僕は無い、が、しっかり考えると、いやしっかり考えるほど 僕が描くのは違うんじゃないか、いやそれだとなにか対象を描くということ自体が難しくなるな… あれも違うかも、これも違うかも なんて風になっていく。そしてそれも一理あると思う。 抽象画だけを描く人というのはそういう所からスタートしている人もいるのかもしれない。描く資格があるものを探す、とか、ラベリングされていない曖昧な綺麗さを見つけてそれを表現するとか。

ただ、あくまで具象として描くならそのことに対する不安を越えていかなくちゃならない。 ここで僕が見習いたいのはタトゥーを彫る人のことである。意味を大切しつつも乗り越えていく雰囲気があるような感じがしている。それを可能にしているのは知識とか愛を持つことと、絵力なのではないかと思う。身体に彫ることと紙に描くことと少し違うかもしれないが、僕は具象の絵は紙に彫るようなイメージでやっていこう。 真摯にやることですな。

もう少し書きたいけれど風呂に入ることにしよう。