2021年6月12日

描く絵をもっと良くしていきたいので研究。今日はモチーフについて考える。と、今の今までモチーフというのを描く対象のことだと思っていたのだけれど(魚がモチーフとか) ちょっとニュアンスが違うみたいだ。「モチーフ」というのはフランス語で動機・理由・主題を意味するのだという。こういう基本的なことを知らない時が良くあるので気をつけねば。 となると、大きい魚の絵が描いてあるとして、その絵のモチーフが魚であるというのは語源からするとちょっと違うのか。 魚が動機 魚が理由というのは良くわからないが、魚が主題というのはあるかもしれない。シンプルに魚の絵を描きたくて魚の絵を描いた場合は魚がモチーフになる。

ただ、何か別の所に意識があり、それを表現したくて 魚を描くということが手段である場合にはモチーフでなくなるという感じだろうか。そうなると今日突き詰めていきたいことがモチーフとは一体何なのかということで終わってしまうのが目に見えるので 一旦その言葉を離れて、「描く対象」という風に考えてみる(元々僕が思っていたモチーフの意味はこっちだ)

僕は最初ずっとキャラクターの絵を描いていて、わかりやすくキッチリ線を描いていた、が、だんだんと線を歪ませたりする操作を無意識的にするようになった(それが無意識的だと意識できるのは時間が経たないとわからないことだ、時間の恩恵を受けることがたまにある)

それは幅が広がること、手法や技法とも呼べるが悪く捉えれば一本の線に対する確信の無さを分散させる細工でもある。 4コマ漫画を描くのからはじめて段々とA4サイズ〜A3サイズくらいまでの紙にドローイングとしてキャラクターを描くようになった。 ここで学生ぶりに手に握ったのがアクリルガッシュである。 4コマ漫画を描くのは筆ペン、水彩色鉛筆、油性色鉛筆を基本的に使っていた。あとたまにクレヨン。違う質感が混ざることが好きだ。 手で色を塗るということのエモーショナルな感じをだしたくて色ムラを作るようにしていた。 ベタに塗ることやパキッとした平面を作るのはパソコンの方がやりやすくて、そういうものに対する反動をだしたかったと思う。 そこから漫画とかではない、紙一枚にドローイングをするということに興味が移っていって そればっかりやっていた。そのうちにキャンバスにもやりたいと思ってキャンバスにも描いた。僕は描いていたキャンバスは小さめだ。そこには絵を描くことにまつわる環境が影響している。絵を描く為の広いスペースがあるかないかというので気の持ちようが変わってくる。 今、僕がとても大きなスペースの中にいて絵の具がたっぷりとあり、背丈よりも大きな板やキャンバスがあれば思い切り腕を振り回して絵を描いてやりたいと思う。気持ちが良いだろうな。 ただ現状はそうではないしずっとそうでなかった。 それが良いか悪いかはやること次第である。 今まで描いた中で一番大きいキャンバスはF20号というサイズで、これを描いている時は正直、環境が悪いと思ってしまった。

そんなやや鬱屈した気持ちから抜け出す為に生まれたこと、こういうのをやろうと思ったことは、ミニマルな手触りを作るということだ。生の感触があって小さいもの。 思い切りろくろをまわして粘土と格闘して身を削って作るような表現はモロに生、せい、なま という感じがあるが実際これをやるのは今のところ難しい。そうすると小さく、コンパクトに、ミニマルにできることというのが自分の中で今できることというものとしてでてくる。それが消去法としての選択肢のような気がして悩んだ時もあったが、今はあんまり気にしないようにしている。全部をできず欲求不満でいるからこそいろんな人がいることを歓迎できるようになる気もする。 できなかった人生をやっていてくれる人がいるっていう。足るを知るのだ。

足るを知るを全然知らない人みたくいつもなってしまうが自分の中で一貫性,,,とまでは言えないけれど、一本の柔らかい筋みたいなのが通っていて、それは前述した ミニマルな手触りを作るということになる。 どんな状態でもやりやすい小さい熱を込められる行為は何かという。 これは例えば写真でいうなら色んな人達と日程を合わせて、大きい高性能なカメラを持って、撮影にあたっての器具を用意して というスタンスの逆のような感じだ。旅先を歩き回って小さいカメラでガンガン撮る、印刷してどれが良いかを考えて、また撮るというような自己完結できるようなこと、誰かモデルの人や通った人に声をかけて撮るにしても その人との関わりの偶然や即興の部分を愛していくようなあり方だ。 建築か音楽かという風に二分するなら音楽よりで、音楽の中でもクラシック音楽よりジャジーな感じだ。音楽の中でも音楽より、即興や偶然よりという。 たまたまバーにいたトランペット奏者の人が演奏する予定では無かったのに当たり前のように吹きはじめるような、そんなぶっつけ本番でいて ちゃっかり、これが良いんだよねぇとさせてしまうような、そういうことが好きだ。 指揮者を待つのが全然できない。 ストリートスナップ、突拍子も無い会話、冷蔵庫の中にたまたまあったもので料理をすることや人がパフォーマンスというわけでもなく踊ることや歌うこと

身軽であること、ベンツより小回りが効く自転車みたいなものになっていきたいのか。 そういう意味ではiPhoneと相性が良く見えるけれど、そこには手触りとか匂いがあまり感じられない。 絵を描くのにアナログでいたいというのは そこでしかできない表現を見つけたというより(見つけたい)ここに関わる時にいたい気持ちというのがあって、 それはもうただの自己満足の世界でもあるのかもしれないけれど、ギターの音と弦の手触りをセットで覚えていたいというか、これがボタンを押すと本当にそっくりそのままそのギターの音がでるとして、同じ気持ちで向き合えるのかという、そこで物理的にできても何故かできない っていうことは良くある。 抵抗があるというのもなんか違うんだけどなぁ。

ギターのこと考えはじめてしまった。絵だ、絵。 僕はキャラクターのように対象があるものを描くことと抽象画、対象が無い絵をどっちも描いている。これは最初に個展をさせてもらった時から何気にそうだった。 いつかこの二つが統合され、めちゃくちゃやばい作品ができるぞ〜 なんて思ってた自分はなんとか組み合わせたり自然とまとまっていくことを夢想していたが現実は全然違った。むしろどんどん分離していってしまった。 この辺りは結構間違えたというか、あんまり良い絵にならないなって時間が長かったのである意味自信がある。 これはこれ、それはそれ、っていう風にわけて考えた方が自分にとってはやりやすく、良い絵にもなった。 言う程まだまだ描けていないけど。

そして何かこう、二つとか三つとか、やってることと関係無さそうなことやりたがること、朧げながらその心理が見えてきている。 AとBをやるとして、Aをやっている時はBのことを客観的に見ることができる。 そうやって自分のやっていることを相対化していくことが自分に合っているのかもしれない。他者の目みたいなのが自分の中にある感じというか。 いつでも自分は間違っているかもしれないという疑念は抜けない。 他人に対しては無いけれど自分に対してはある。良いか悪いかといったら悪いかもしれない。でも真剣に向き合うとどうしてもそうなってしまう。 ただ立ち止まることもキツいので進む為に四肢を作るというか、両輪が回る、 右脳と左脳があるように自然に存在させたい。 ていうか今してるな。

そんなわけで明日も文章書こう。明日は絵力について考えてみよう。絵霊。