2021年6月11日

ふと何故か 立ち読みした 「刀匠が教える日本刀の魅力」という本が面白くて買ってしまった。武器に興味ないのになんで立ち読みしたんだろう。ふと目にとまった。本に印刷されている刀のシェイプが格好良いとか、そういうことでは無く、鍛冶職人の人が日本刀と向き合う姿勢に感銘を受けた。 実用品では無く、観賞用、贈答品として買う人も限られるがゆえに作る人も少なく、ネガティブなイメージを持つ人もいるであろう中で作る人の言葉が心に沁みる。紙に印刷された関西弁の話し言葉のテキストが声のように見える。 声が見えるというのだろうか。

そんな風に一つのことに対して集中してこなかった生活が長いので伝統的なものに対する姿勢に触れることが自分にとっては新鮮なことでもある。 そうしたものに触れるのはネットでもできるし本を読むことでもできるし、実際に目で見るということでもできて、江戸時代みたく実際に行ってやっている人に会って,,,っていうプロセスを踏む人は少ないだろうし、僕も余程気になってどうしてもいてもたってもいられなくなって何も手につかないぐらいになるか、住んでいる所の近くでやっているらしい みたいにならない限りやらない。

ただ、そういうことをなるべくネットではなくて本で知っていこうというように決めた。 知るというか染み込ませるという。 今は何でも簡易的になって理念なり利益なり、、当てはまる言葉がわからないが 何か一つに対して何か一つしか対応していないということが多い気がする。 一を知って十を知れないというか、 先生の脱線話みたいなのが少ないというか、 非合理に見えるものはすぐ省かれる。 それは何にとって非合理なのかというのを良く考えないとな。僕は無駄なプロセスやストーリーが好きだ。 むかしビートルズのメンバーはギターのコードの押さえ方を隣の町のやつが知っているらしい といって隣の町まで行って教わったらしい。これは当時の考えで言えば無駄なプロセスでもストーリーでもなく割と合理的な行動ではあるのだが今みたく10秒くらいでわかってしまう時代においてはその1時間か2時間くらいかかりそうなことはすごく素敵な無駄な時間に思える。 なんだかその場にいないのに懐かしいような感じもするのは何でなんだろう。 もしかすると幼い頃、携帯電話を持ってない頃というのがあって、その時間のことを思い出すからかもしれない。自分の身体と脳味噌しか無い感じ。知らないものは知れないという空気があった。知っている人が教えてくれなければね

ここでネットの特性というものを考えてみる。ネットというのも誰かが知っていることを誰でも見れる電脳空間みたいな所に教えているという考え方もできる。詳しい仕組みは良くわからないが大方そんな感じなんだろう。 それを誰でもアクセスして教われる状態。 逆に見ず知らずの人に教えている状態というのもある。 すごく便利で、スピーディーだ。その代償として失うのは辿り着くまでの無駄な時間。 時間を失うとは良く言うが 無駄な時間を失う とは中々言わない。でもいつか逆転して色んな人達が言い始めるかもしれない。 電球が生まれる前には人はろうそくを使っていて、電球が生まれた時は電球は高級品であったが流通するにつれてろうそくが高級品になったという話があって、それも示唆的なことである。 無いものねだりは人が生まれてからずっと続いてるんだなぁ。 それなら人類共通の理想が不便というものになることが無いとも言い切れない。

便利が功を奏するものは沢山ある。というか奏さなければ誰もこの状態を求めなかっただろう。 電車、バスの時刻表や地図というのは携帯電話で確認するのが良いアイディアだ。 ただ、部屋に可愛いイラストつきの最寄りのバス停の時刻表を貼ったりあの山の向こうには何があるのだろうという思いを馳せられなくなるのは失われた部分かもしれない。 そこまでいくと現代文明が大嫌いになってしまうのでやめておく。 良い部分は良いで、しっかり享受していきたい。僕は自分に対して極端な考えを禁止している。極端になると根の人間性やセンスが直に問われると思っている。 あんまりそこに耐えきる自身が無いのだ。

電車とか地図はネットって良いなってことを書いていたんだった。すぐ言葉につられてコロコロ書きたいことが変わってしまう。 そうやってまとまらないテキストのツリーがすぐできてしまう。一回も完成したこともない。

ネット(アプリ?)を見ていて違和感を感じる時というのは、本来、マップがサクッと見れて便利 とか 家にいながら時刻表が見れて嬉しいというような感覚を、もっと幅広くいろんなものに対応させられる、あれもこれも、、、という欲が空回りして見える時のことだ。 それは、そうやって見るものではないのでは というのがそうやって見られている時、もしくは見せようという意図を感じてしまう時、 もちろん何をどう見るかどう見せようとするか、あれなのかこれなのかそれなのか、何をどう感じるのかは一人一人が自由な形で持っていて良いのだが、何かシラケて見えることや空気が蔓延していてその距離や折り合いの付け方を自分だけでなく誰か一人でも迷っている人がいる時に自分の思考が動きはじめる。本当はその誰か一人がいなくても良いのが理想だけれど まだまだ修行が足りないみたいだ。

そう、修行というのがこのところ胸にひっかかっているのだ。 絵を描くのに、昔のように楽しい楽しいという高揚感だけでできなくなっていることを気にしていて、その感覚にどうやって近づけるのかというのが抱えている課題だった。それは、文章を書かないと気づけなかったことだ。 やっぱり、埋まっている考えや気持ちというのはあるんだろうなと思う。それを掘り起こして珍しい石や探していたものを掘り起こすことが言葉にするとできる。全部は掘りきれないだろうけど、ピタッと合う言葉がでてきた時に先に進める。 絵に関することや現実を見る目も変わってきて、またなんか悶々としてきて,,,っていうのを繰り返すのが僕にとって暮らすということなのかな。 また方向が逸れそうだ。散文だ 僕は伝書鳩失格、研究鳩になりたい。

楽しいという高揚感にどうやって近づけるのかということを考えていたのだった。この場合、師匠を昔の自分の気持ちにしてしまっているというのが問題だ。新しい気持ちに目を向けた方が良い。 何かを作ることを修行という考え方をしたことがなかったので、そういう角度からも見てみようかなと思っている。 楽しいという高揚感で修行をしていますっていう人は中々いないだろうし、そういう言葉を当てはめなくても、そもそも作ることと楽しいなんて全然結びつくことじゃないよ、キツいよ、でもやり遂げた時は格別だなぁっていう人(むしろそういうタイプの人の方が多いかもしれない)もいるので、時間が経って変わってきた、っていうことを受け止めてやっていこう。 それで何かがすぐ変わるわけでは無いけれどそこが良いんじゃんっていう平常心の先にあるような楽しみ方をしたい。

明日は絵を描く際のモチーフについてという題でテキストを書きたいと思っている。