2020年7月15日

その世代の人としてその世代のものを作りたいという気持ちがあったけれど、今はもうそうでもないな。 これだけ、色んな時代にタイムスリップできたり飛行機に乗らずとも場所をポンポン飛んでいったりできる環境を見るとこう、ひとまとめに何かをすることは自分にとってとても難しい。 逆説的だけれども色んな土地と時代がインスタントに混ざったのが今の世代性というか。 どっちみち明るく受け止めるしかない。 明るいっていうのかはわからないけど。 ただ、iPhone見て死にたくなってるよりはiPhone見ておぉ!って思ってた方がこんなコロナ渦でも幾らかマシに過ごせると思うんだよな。

あぁ、次はiPhoneじゃない携帯にしたいなと思っている。 無駄を削いだデザインの行き着く所が無くなってる気がするよ。 無駄をしっかり愛したい。

カジミール・マレーヴィチが描いた、黒の正方形という作品。 それは絵画から無駄をひたすらストイックに省いた、今でいうとiPhoneのような表現だったのだと思う。 しかし、そのマレーヴィチが晩年最後に描いた作品は自画像だったという。 対象を否定したが最終的に対象に戻っていったという。 ここには大きな意味があるような気がする。 例えば音楽。ジョン・ケージは4分33秒という曲を作った。 その曲は、4分33秒間 何も演奏しないでいるという。 それは,,,音楽とは何なのか、無音というのは音に含まれないのか、観客の声や仕草から生まれる音を曲として利用することはできないのか、、そもそも音楽というものをやる意味があるのか、等、 色々なことを考えさせられる。 あ、あとなんで4分33秒間なのかとか。 それはどういう意味?とか。

僕はジョンケージ、この曲しか知らなかったのだけれど、勿論4分33秒以前のキャリアもあれば、4分33秒後のキャリアもある。 21歳の時に作った、Sonata For Clarinetは、所謂クラシック音楽と比べると前述した一風変わった?音楽を作る人らしく、実験音楽的な趣向がその時からあるのだけれど、まあまぁ、自分や自分の友達が、多分あなたも音楽として認識できる範囲の曲である。 その約20年後に4分33秒ができる、20年。 20年あれば人の考えも変わるし、何かを生み出す、生み出そうとする人であれば、作風も勿論、大小の差はあれど変わっていく。 おそらく、音楽に対する疑いが生じてきたが(もしくは最初から疑っていたが)それでもジョンケージの中で音楽家というものに対するこだわりがあって、その終着地点として生まれた無音の音楽が4分33秒なのではないか。 ここまではなんとなくわかる。 しかし、表現としての終点に達した所でその後も人生は続いていく。 ここで、死ぬか表現を辞めるかという選択肢がでてくる。

ミーハーながら、個人的にはここから、マレーヴィチとジョンケージの共通点が現れてくるような気がする。 ここから、「心象風景第五番」、少し時間が空いて、「ピアノとオーケストラのためのコンサート」という作曲が続く。 作曲自体を問い直す作曲というものが終点だとして、その先の駅を作り出したのだ。 というよりも、そうせざるを得なかったのだと思う。 無くなった後はそれよりも無くすことはできなくなる。 Tシャツ脱いだら何も脱ぐものがない。 着るという選択肢しか目の前には無くなるのだ。 それとも自分の皮膚を剥ぐか??

0分00秒っていう曲も4分33秒の10年後に作られたようだ。 ただ、これももう行き着く所が無い。 無駄を嫌ってもどこかで無駄を欲していることに気づく時、ひいては人生そのものが無駄なのかもしれないとまで考えるようになった時、その無駄を楽しもうとすることに罪悪感を感じていても、次の日がやってくる。 そんな日々を見つめてもう一度音を鳴らしてみようという、そういう人生だったのかな。 一度辿り着いた四角から元々の有機的な形へと進むことはきっと勇気がいる

生きていれば何度かは勇気をださなきゃいけない時があるんだな!

ただ、ジョンケージさんはキノコ研究家でもあるという変わった人物でもあるので僕が想像できる範囲なんて遥かに越えていて、そんなことでは全然無いのかもしれない笑