バウハウスが気になるのは、カンディンスキーや、パウル・クレーって人が合理主義なものに合わせて授業ができてたと思えないんですよね。しかし、今調べると、クレーはかなり理論的な日記やテキストを残していたみたい。こちらで言及されています
感覚的に塗っているように見える人がどこか絵を描いている時と別の時間に理屈めいたことを考えたり書いたりしているってこともあるな。 ただ、絵を描いている時はそんなに深く考えていないと思っているけど。

考えるためにはプレイする時間と離れている時間が必要だな。いざステージに立った時に次はこういう旋律でという風にあれこれ考えながらギターを弾いたりしてると思えない。。ギター弾く人の場合、ね。
離れている時間は別の人間だったりもする。そうするとゴシップやなんかで見える その人っていうのも氷山の一角というか、わずかな一面にすぎないなー。 死んだ人の音楽とか絵とか写真とか、も、その人の一面でしかない その人が表現者として生きていたならそこに全ての面をだしたかっただろうけど。一面だして、二面目をだして、三面目をだして、ゲームみたいだ。全ての面はでないっていうことには、マイナスな部分もあるけれど、想像が膨らむ。 それで良いのかもしれない。だからこそレビューが活きてくる。 この人の言いたかったことは、こういうことなんだ、と、後に生まれた人が言って、それが全然間違っていたとしても、すべての面は見えないのだから、あってるとも間違ってるともわからないな。
というか言いたいことは本人もわかっていないのかもしれない。それなら、正しい解釈よりも、好きな解釈をしましょう

結局、好きか嫌いかだけで動いているな、正しいにこだわる人は、正しいことが好きなだけだ。