脱力

最近、窓を開けるだけで部屋が広くなったように感じることに気づいた。窓を開けることによって内側と外側が曖昧になる。ポテズ4コマも、4コマとして機能するための枠線が描いてあるが、手描きの為その枠線から色がはみ出したりする、その境界の曖昧さと窓を開けることには共通点があると思った。 境目というのも自分が重要に見ているポイントだ。手塗りの絵において、完全な色を塗ることはできない、それは完成と未完成の境目であるし、”ジャンル”というものの境目も気になる。

自分の活動において関係の無い事柄でも、何かを作る上でのヒントと考えるようにした。今は関係無いこともやらねばならない。しかし、意識の持って行きようで間接的に関係を持たせることができるはずだ。 間接的な関係というのも研究してみたい対象である。サッカーをやっていた人の音楽と野球をやっていた人の音楽には違いがあるのか。健康な人の絵と不健康な人の絵はどう違うのか。

最近はいつの間にか自転車も盗まれ、運動不足になっている。何か良い運動をしたい。自分の作るものに身体性を取り入れてもよいのではないかと感じている。そもそも、手描きというのも身体性である。実は自分はこの身体性というのが好きなのではないかとも思う。要するに、手描きの味がデジタルの味よりも好きというだけでなく、塗っていく、描いて行く作業自体が好きなのではないか。これはイラストレーションとペイントの違いのように思う。自分はペインター向きなのかもしれない ポテズ展では、自分が輪郭線を描いて、巨大塗り絵というのをやってみたいと思っている。自分が描いたものに他の人が塗っていく。これも先ほど書いた境界の話にもつながる。作者と観客の境目。描く人と見る人の境目。自分と他人の境目を曖昧にする 自分のことでなく人類全体のことを考えようというような意識がある人がいる。それも境界の撤廃、もしくは拡張という意識を持っているね。そう考えると、”境界”という概念はどの分野においてもひょこっと顔をだすものである。

静と動というのがあるとすれば、自分は”動”が半端だ。しかしそれはしっかりと静かにしていないからだともいえる。常に動こうとして静かにできていない。どちらかだけ大切にすることはできない 静と動のルーティーンを作らねば。バランスというよりもルーティーン。この話を精神的な話にしてはいけない。静を一言で言うと睡眠である。完全にスイッチをオフにして寝る。脱力する。僕の高校生の時やっていたポッピンダンスでは脱力から力むことによって筋肉を弾く。それと同じだ。力むことに集中しがちだが実は大切なのは脱力することなのだ。

脱力というのは、実は重要で、とても難しいものである。力むのは簡単なのだ。自分で自分を強迫し、栄養剤でも飲んで、時間を過ごせば良いのである。しかし、その時間が長くは続かない 力を入れる時間を増やす為には、力を入れない時間が必要なのだ。 自分は脱力が苦手だと思う。寝ている時間というのは、死んだ時間のように思っていた。給料の貰えない仕事みたいな感じ。しかしそうではない。この時間は充電の時間なのだ。

昨日は色々なアーティストを調べて、ファッションとしてやっている人とパッションとしてやっている人がいると思った。自分はパッションなのだ。
マルチネレコードというレーベルを知って、音を聞いて感動した。デジタルなビートでも重ね方次第でグルーブを作ることができるんだなと思った。
頑張る時はいかに頑張るかではなくいかに休むかに意識を持って行く練習をしようと思う。