なぜ絵を描くのか

2016年の11月に、ぽてんIIという僕の個展があって、その時来てくれたみずきちゃんという女の子に、なぜ絵を描くのかと聞かれた。 その、根本的だけれども人によって違うというか、水はなぜ流れるのかということに対して、液体だから流れるんだという所で止めたくないなあとここ2年間思っていたところ。

それについて、さっき散歩中に浮かんだことがいくつかあるので書く。

 

まず、僕に取って絵を描くことは「芸術」というよりも「表現」だと思っていて、僕の好きな表現は、「持たざる者のチケット」として機能しているものだ。(この、「持たざる」というのは、何に対して持っていないのか、持たざる者のチケットを使った人が「持って」しまったらどうするのかという2つの問題があるが、これは長くなってしまうし、自分の中でもいまいちまとまっていないのでここでは省く)

日本語の語感の話になってしまうけれど、ギターを弾くことは「演奏」をすること。その、「演奏」というのは「芸術」であるのか、「表現」であるのかの2つにもし分けるとするならば、「表現」の方だと思っている。他にも、ラップをすること、ダンスをすること、人と話すこと、写真を撮って人に見せること(インスタグラムとか)、Tシャツを作ること、、

これらは芸術か表現か分けるなら表現であると思っている。  自分も表現であるならばここに並んだものを作っていきたい。 ラッパーやダンサーとは違う「芸術」をやるよりも、ラッパーやダンサーに並ぶ為の「表現」を作りたいから絵を描いているというのが1つの動機としてある。

 

…まあこれは言うならば、PRADAとVANSの、どっちが格好良いのか?? みたいなステージも価格も違う、基準が曖昧なことで、どっちも格好良いだろっていうのが正直なところだが、現在の自分がどっちっぽいのかは考えてみる必要がある。僕はVANS。(これも気が変わる可能性を感じていなければならないが、今の確信を忘れる前に書くのだ)

 

2つ目に、僕は元々絵が1番苦手だ、、 中学校の1年目の1番最初の美術の授業で、絵を自由に描くというのがあったのだけれど、案の定僕は何も描くことができず、見かねた美術の先生が、君のインスピレーションのままに描くんだ、別になんでも良いんだ、自由に描くんだと言うので、僕は「死体」という作品を描き提出したが、それが余程気に入らなかったらしく、母親を呼び出され、面談をすることになった。机に僕の描いた「死体」が置かれ、「お父様は何をされている方なんですか?」とか「子供らしくない」とか、僕の描いた「死体」を指差して、「これは何?」とか、聞かれ、いや、「死体」ってタイトルなんだから「死体」だろと思いながら、「あぁ、それは死体です」 そうすると、何について悩んでいるのかとか、家ではどんな様子なのかとか… 学校は好きだったけれどもそれから疑いを持つようになった、尾崎豊の、卒業という曲の最後の詩は、「仕組まれた自由に誰も気づかずにあがいた日々も終わる」という詩だが、この部分は未だに気づかされることが多い。

 

その、「仕組まれた自由」の中には、せいぜい、「太陽」とか、「ビル」とか、「湘南の海」とか、「友達」とか、「お父さん」とかしか入っていなくて、「死体」はその外にあったんだろう。

 

それと微妙に関連して、キャラクターの絵よりも抽象画の方が良いと言われたことが結構ある。そこには肯定的な意見もあったし、否定的な意見もあった。それ自体はとても良いことだけれど、それがもし、前述した「死体」が「子供らしくない」みたいな安直な発想で、「抽象画」が「高尚なアート」で、「キャラクター」が「安っぽい商品」みたいなことだとしたら、ちょっとがっかり。

 

なぜそんなことを書くかというと、これらはアートだとか表現だとかそういうことを超えて世の中の問題全てとリンクしている気がするからだ。 ◯◯は、◎◎であるという根拠の無いラベリングは差別である。そして、差別は良くないという言葉や考えだけが広まっているわりには、◯◯は、◎◎であると、何十年も言い続けている人が多すぎると思っている。 しかしまだ僕の中で明確な答えはでていない。そして、実際には差があるにも関わらず、無いというのも間違っていた。

 

おそらく!! 自分の好きな人達は、”それ”の中で”違うそれ”をやっているのだ。◯◯は、△△である可能性”も”あるとか、、 オルタナティブな可能性が1度でも現れれば、そして、そんなに難しいことでもないとわかれば、後は人の数だけバリエーションが生まれる。

 

なんかもう少しでモヤモヤが晴れそうだけれども、少し置いて、1週間後ぐらいにこの日記をもう1回読んで考えよう。